110 崩れ始めるシンフォニー(3)
「婚約解消はしない。僕の相手は、僕が決める……!」
吐き捨てるようにそれだけ告げると、オズフリートは天使に背を向けその場を後にした。
『待って、オズフリート。私の話を聞いて……』
うるさい、黙れ。聞きたくない。
聖天使レミリエルの声が追いかけてきたが、オズフリートは振り返らなかった。
皆の理想とする模範的な王子ならば、きっと守護天使の助言を跳ねのけたりはしないのだろう。
だが、「リリスを捨てて他の女を娶れ」という言葉にだけは従えなかった。たとえその相手が、伝説に謳われる救国の聖女であったとしても。
リリスと出会って、オズフリートの世界は変わった。
音楽を聞けば心が浮き立つということも、咲き誇る花の美しさも、この世界が色鮮やかだということも、すべてリリスが教えてくれたのだ。
きっとリリスを失えば、オズフリートは空虚感に苛まれるだけの抜け殻のようになってしまう。
「初恋」という言葉では言い表せない、魂のよりどころとでも言うべき相手なのだ。
……絶対に、リリスと離れたくない。
――「聞いてください、オズ様!」
そう言って駆け寄る相手が自分以外の者になってしまうことを考えると、気が狂いそうになるほどだ。
後から考えれば、なんて幼稚な独占欲なのだろう。
この時、きっぱりリリスを手放すか、リリスを選ぶ代わりに王位継承権を放棄するくらいのことをやってのければ、きっと未来は変わっていた。
……リリスが、あんな目に遭うこともなかったのに。
だがオズフリートの願望とは裏腹に、リリスはどんどんと孤立していった。
相変わらずオズフリートは、リリスを嘲笑する者たちを抑えることはできなかったのだ。
リリスはきっと傷ついていただろう。それでも彼女は、決して人前で涙を見せることはなかった。
オズフリートはそんな彼女の強さに、甘えていたのだ。
「オズフリート、お前は本当にあんな地雷女を王妃にするつもりなのか!? もっと他にいい相手がいるだろう!」
友人であるギデオンが、嘲笑するようにそう告げる。
同じような諫言はもう耳にタコができるほど聞いている。
オズフリートは曖昧に笑って、ギデオンの言葉を聞き流そうとした。
「君の方こそ、リースリー家の婚約者とはうまくいっているのかい?」
上手く行っていないのを知った上でそう聞くと、ギデオンは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「しょせん家同士の婚約だ。あいつが他の男と浮気さえしなければどうとでもなるさ。もっとも、屋敷に引きこもってるだけの女だ。そんな度胸はないだろうがな!」
……なるほど、相変わらずギデオンは婚約者に避けられているようだ。
リリスのことを悪しざまに言うのも、婚約者と上手く行かないストレスをぶつけているだけなのかもしれない。
「……ままならないものだね」
どうして、世界は自分の望むようには動いてくれないのだろう。
望んだ未来が、どんどんと遠ざかっていく。
そんな状況にオズフリートは、少しずつ疲れ始めていた。
ついに、恐れていた日がやって来てしまった。
「まさか、この時代に聖女様が現れるとは……!」
「これはめでたい! オズフリート殿下の御世の繁栄は約束されたようなものだ!」
救世の聖女の降臨の神託が下ったかと思うと、神殿からすぐに、片田舎の村にいた「聖女」を保護したという報が届いた。
周囲の者たちは口々に祝福の言葉を口にしているが、オズフリートは少しも喜べなかった。
むしろ、絶望すらしていた。
「だが、聖女様が降臨なさったとなると、フローゼス公爵令嬢との婚約はどうなるんだ?」
「そりゃあ、聖女様が正妃となるに決まっているだろう。フローゼス公爵令嬢とは婚約破棄、よくて側妃落ちだろうな」
「ちょうどよかったじゃないか。どう考えても、フローゼス公爵令嬢に王妃は務まらなかっただろうし」
「案外殿下も、この状況に安堵されているかもしれないな!」
人々は口々に、「リリスと婚約破棄をして聖女を新たな婚約者とするべきだ」と話している。
もはや声を抑えることもしないその話は、オズフリートの耳にも届いている。
いや……あえて聞かせようとしているのかもしれない。
オズフリートは自身の派閥であるはずの貴族たちでさえ、制御できていなかった。
彼らもきっと、オズフリートのことなど自分たちの操り人形程度にしか思っていないのだろう。
……どうして、こうなってしまったのだろう。
初めてリリスに出会った時は、世界が輝いて見えたのに。
「殿下、本日はいよいよ聖女様との謁見が……」
「わかった、すぐに向かう」
どれだけ絶望に苛まれていても、体は自然に第一王子としての公務をこなしていく。
まるで糸で操られている人形のようだ……と、聖女との顔合わせに向かいながらオズフリートは自嘲した。




