108 崩れ始めるシンフォニー(1)
正式な手順を経て、リリスはオズフリートの婚約者となった。
その事実に、オズフリートは自分でも驚くほど安堵しているのに気が付いた。
……考えないようには、していたのだ。
リリスはフローゼス公爵家のたった一人の娘。婿を取るにせよ、どこかに嫁ぐにせよ、いずれオズフリート以外の男の手を取ってしまう可能性が高いということを。
だが、その心配もなくなった。
今のリリスはオズフリートの正式な婚約者なのである。
他の男など、入り込む余地はない。
その事実は、オズフリートに確かな安堵と仄暗い愉悦を抱かせた。
「聞いてください、オズ様! 王子殿下の婚約者なんだから、もっとお淑やかにしなさいってしつこくて……もう、嫌になっちゃう!」
オズフリートの婚約者となったことで、リリスの奔放な振舞いを注意する者が増えてきた。
当のリリスは、その忠告を鬱陶しく思っているようだが。
ぷりぷりと怒る様子も愛らしくて、オズフリートはくすりと笑う。
「リリスは、変わらないね」
「だって、私は私ですもの」
『ずっとそのままの君でいてね』と伝えようかとも思ったが、オズフリートはその言葉を飲み込んだ。
今のリリスはいずれ王妃となる存在だ。
王族には王族らしい振舞いが求められる。リリスも、いつまでも今までのように自由気ままではいられないだろう。
この時のオズフリートは、その現実と理想の差異を大きな問題だとは思っていなかった。
リリスもいずれは王子妃としての振舞いが身につき、何もかもがうまくいくだろう。
……そう、楽観視していたのだ。
それが、命取りになるとも知らずに。
「オズ様! あの伯爵令嬢と侯爵令息が、私の詩を馬鹿にしたんです! 聞いてるだけで恥ずかしいとかセンスが壊滅的とか……ひどいとは思いませんか!?」
怒りからか顔を真っ赤に染めて、リリスがそう直訴しに来たこともあった。
リリスのセンスは個性的だ。残念なことに、大多数の人間には理解されないのである。
婚約者(の詩のセンス)が侮辱されたのだから、オズフリートも件の貴族子女に一言物申すべきなのかもしれない。
だが何気なくそう零すと、オズフリートの側近は重々しく首を横に振った。
「殿下、フローゼス公爵令嬢を大切になさるその姿勢はご立派ですが……今回は、見送った方がよろしいかと」
「何故? リリスは傷ついているんだ。僕が少しでも言ってやれば――」
「例の伯爵令嬢の父は財務長官、侯爵令息の領地は、わが国で最も重要な貿易拠点の一つです」
聡いオズフリートは、その言葉だけで悟ってしまった。
「……敵に回すような真似は、避けろと」
「余計な火種は撒かないに限ります。御身や母君の立場をよくお考えになってください」
今は優秀な第一王子ということで、オズフリートは次期王位継承者になる可能性が高いと目され、多くの貴族がオズフリートを支持している状況にある。
だが第二王子や、他に王位継承権を持つ者がいないわけではないのだ。
有力者を敵に回せば、あっという間に今のパワーバランスが崩れてしまうことも考えられる。
そうなれば、オズフリートは多くのものを失ってしまうだろう。
リリスとの婚約が、白紙に戻ってしまう可能性もなくはないのだ。
「…………そうか」
「フローゼス公爵令嬢については、他の方法で機嫌を取って差し上げるとよろしいでしょう」
「……そうだね、そうするよ」
多くのものを失うリスクを考えれば、下手な手は打てない。
この時のオズフリートは、ただ周囲の忠告をそのまま受け取ることしかできなかった。
――リリスは……怒るだろうな。
きっと彼女は、オズフリートがリリスを傷つけた者たちに注意するという対応を望んでいたはずだ。
だが、それはできなかった。
誤魔化すようであまり気乗りはしないが、リリスには何か贈り物でも贈っておこう。
きっと、今だけの辛抱だ。
オズフリートとリリスが正式に婚姻を結べば、王族となったリリスに真正面から立ち向かう者も減るはずだ。
そう信じて、オズフリートはリリスの望みを斬り捨てた。
二人の歯車が少しずつずれ始めたのに、この時のオズフリートはまだ気づいてはいなかった。