104 小さな恋のメロディ(1)
遠くから、近くから、リリスの声が聞こえる。
泣きそうな、それでも威勢のいい声だ。
……よかった。彼女は無事のようだ。
だったら、せめて最後に伝えたい。
「傷つけて、ごめん。守れなくて、ごめん……」
君が好きだった。君を守りたかった。ずっと……君と一緒に生きたかった。
でも、その願いが叶わないならせめて――。
「リリス……君は生きて。今度こそ、生き延びて……」
君が笑っていられる未来こそが、僕が何よりも欲しかったもの。
……たとえ君の隣に、僕は存在していなくても。
◇◇◇
オズフリートは、セレスティア王国の当代王の第一王子として生を受けた。
母は名門侯爵家出身の正妃。
誰も、オズフリートが次の王であると信じて疑わなかった。
……正妃である、母以外は。
「いいですか、オズフリート。あなたは必ず父君の後を継いでこの国の王となるのです。その為には、誰よりも優秀でなければなりません。決して、努力を怠ってはなりませんよ」
事あるごとに、母はそう言い聞かせてきたものだ。
父には母のほかにも、幾人かの側妃がいた。
どうやら母は、側妃が子を産んでオズフリートや母自身の立場が脅かされることを極度に恐れていたようだ。
聡いオズフリートは、物心つく頃には母の立ち位置や彼女の抱える不安をなんとなく理解していた。
だからこそ、反抗する気は起きなかった。
ただ周囲の言葉に従い、分刻みのスケジュールをこなす日々。
特に異母弟が生まれてからは、いっそう母の圧力は強くなった。
オズフリートはこの国の王になるのだから、誰よりも優秀でなければならない。
そうでなければ、すぐに見捨てられてしまう。
その言葉はオズフリートの胸に、呪いのように刻まれた。
教師たちは皆優秀だと褒めてくれたが、自信は持てなかった。
テストを受ければ問題を間違えることもある。
剣術の教師からは、まだろくに一本を取ることもできない。
詩吟や奏楽の良さも理解できない。ただお手本通りに進めるだけだ。
オズフリートに与えられるものも、周りに侍る人材も、すべてこの国でも類を見ない一流揃いだ。
それでもオズフリートにとっては、自分を取り巻くすべてが堅牢な檻のように思えてならなかった。
自分は所詮、檻の中で飼われている哀れな動物、母の操り人形でしかないのかもしれない。
そう、息をするのさえ苦しく思い始めた時だった。
……初めて、彼女に出会ったのは。
「オズフリート殿下、今度の音楽会にはフローゼス公爵の御息女もいらっしゃるようです」
「宮廷魔術師の? 確か、彼の娘は僕と同じ年だって聞いたけど……」
「えぇ、御息女――リリス嬢はたいそうお可愛らしいご令嬢だと評判だそうで……」
あれは7歳の時だった。
思えば初めて会う前から、周囲はリリスのことをオズフリートの婚約者候補として扱っていたのだろう。
オズフリートも幼いながらにその空気は察していたが、正直に言うとそこまで婚約者候補の少女に興味は持てなかった。
どうせ彼女も、オズフリートを取り巻く檻の一つにしかならないのだろう。
そう思っていたのに――。
「はじめまして、オズフリート王子殿下。リリス・フローゼスと申します」
――まるで、人形のように愛らしい少女。
それが、リリスの第一印象だ。
ただ、それ以上の感想はなかった。
優雅に挨拶を述べる様子からも、よく躾けられているのが見て取れる。
きっと心の方も、人形のように凍り付いているのだろう。……自分と、同じように。
そんな思いを表に出さないように気を付けながら、オズフリートはリリスと言葉を交わす。
「はじめまして、フローゼス公爵令嬢。お会いできるのを心待ちにしておりました」
「殿下、今日の音楽会ではわたしも歌をうたいますの。応援してくださるかしら」
「えぇ、もちろん。とても楽しみです」
教師に教えられた、教科書通りの会話だ。
言葉とは裏腹に、フローゼス公爵令嬢の歌になど興味は持てなかった。
オズフリートに音楽の良し悪しはわからない。何を聞いても心が動かされることなどないのだから。
無感動な瞳でリリスが公爵に連れられて去っていくのを見つめて、オズフリートは小さくため息をついた。
「リリス・フローゼスと申します。みなさま、どうぞよろしくおねがいいたします」
幼いながらもしっかりとした声でそう告げ、リリスは舞台の上で礼をした。
その愛らしい様子に、見守る観客から拍手が沸き上がる。
オズフリートは顔に笑顔を張りつけながら、周りに合わせておざなりに手を叩いた。
リリスが歌い終わったら、オズフリートが花束を渡すことになっている。
幼い王子と小鳥のように愛らしい公爵令嬢の、小さな恋のはじまり――。
……なんて、つまらない筋書きなんだろう。
だが、そんなオズフリートの憂鬱は、一瞬で吹き飛ばされることになる。
自分と同じく人形のようだと思っていた、一人の少女によって。
「このたび歌わせていただくのは……『泡沫の白昼夢』です!」
「…………え?」
聞きなれないタイトルに、オズフリートは思わず舞台の上の少女を凝視した。
「お嬢様、そうではなく讃美歌です!」と公爵家周辺の者たちは慌てているが、リリスは意に介した様子もなく、自信満々に歌い始める。
「あぁ~、この胸を焦がす~深淵のカタストロフィ~」
予定されていた讃美歌とは違う、聞いたことのない滅茶苦茶な曲だった。
戸惑ったように顔を見合わせる者、耐え切れずに口に手を当て忍び笑いを漏らす者……観客の反応は様々だ。
だがオズフリートは、食い入るようにリリスから目が離せなかった。
歌詞も、旋律も無茶苦茶な曲だ。
とても宮廷音楽会で披露していいようなものではない。
それなのに――。
生まれて初めて、音楽を聞いて心が動いた。
彼女に渡すはずだった花束を取り落としたことにも気づかずに、オズフリートは楽しそうに歌い続けるリリスを見つめ続けることしかできなかった。