102 あなたになんて、わかるはずがない
思えばイグニスは、ずっとリリスの傍に居てくれた。
それこそ友人や家族よりも、ずっと多くの時間を彼と過ごした。
ただの利害関係のはずだった。
リリスは自分を陥れた者への復讐を果たすため。
イグニスは契約に従いリリスの魂を喰らうため。
互いが互いを利用し、情などに流されない冷たい関係のはずだった。
それなのに……いつからだろう。
彼のことをまるで、友人や家族のように思い始めたのは。
彼の作るスイーツが好きだった。
たまにわさびやマスタードなどを中に仕込まれて、とんでもない目に遭うこともあったが……それもまた楽しかった。
彼の料理の腕はどんどんと上達していき、レイチェルやギデオンにも褒められていた。
リリスの練った復讐プランにも、いつもぶつくさ文句を言いつつ協力してくれた。
二度目の生を得てから、リリスにもたくさん楽しい思い出ができた。
その思い出の中には、いつもイグニスの姿があったのだ。
「何で、何でよ……」
素直にリリスの魂を喰らえばよかったのに。
そうすれば、イグニスは消えずに済んだのかもしれないのに。
リリスと契約した時に、彼の力をリリスに分け与えた。
その力は戻っていない。
そんな状態で、天使に戦いを挑むなんて無謀でしかなかったのだ。
「弱いくせに、何でっ……!」
魔物一匹現れただけで大慌てだったくせに。
六枚羽の天使なんて、相手にしたくないといっていたくせに。
それなのに何故……自らを犠牲にしてまで、リリスを生かそうとしたのだろう。
「こんなことして、私が喜ぶとでも思ったの……」
リリスを絶望の運命に突き落とした元凶――守護天使レミリエルはもういない。
それなのに、少しも喜べなかった。
果たしてこれが、リリスの望んでいた復讐だったのだろうか……いや、違う。
――私、私は……。
イグニスやオズフリート。
レイチェルにギデオンにアンネ。
リリスはただ大好きな者たちと一緒に遊んだり、美味しいものを食べたり……そういった、他愛ない時間を過ごしたかっただけなのだ。
でもそれは、もう二度と叶わない。
イグニスはもういない。
もう二度と彼のお手製のスイーツを食べることも、何かを命じた時にぶつぶつと文句を言う声を聞くこともできないのだ。
そう思うと、まるで体と魂が引き裂かれそうなほどの悲しみに襲われる。
ただひたすらにイグニスの名を呼びながら、リリスは泣いた。
「……リリス」
うずくまって泣いていると、そっと肩を抱かれる。
「……君の気持ちもわかるけど、今はここを出よう。さっきの衝撃で、この建物自体も危なそうだ」
その言葉を聞いた途端、かっと頭に血が上った。
「私の気持ちが、わかるですって……?」
やつ当たりだということはよくわかっている。
それでも、この行き場のない悲しみを、怒りをぶつける先が必要だったのだ。
リリスは泣きぬれた顔を上げ、オズフリートを睨みつける。
「あなたになんて……わかるはずがないわ! いつもそうやって、余裕そうに笑って……私の気持ちなんて、知らないくせに!!」
彼に、リリスの想いが、今までの苦労が理解できるはずがない。
確かに、彼は変わった。
だが、忘れられない、忘れるはずもない。
一周目の世界で、リリスを絶望の底に突き落としたのも彼なのだ。
「あなたは何でも持ってる。なんだって苦労もせずに手に入れることができる。そんな人に……わかるはずないじゃない!!」
母が亡くなって、ずっと寂しかった。
本当はもっと、父に構ってほしかった。
誰かに認められたい、愛されたい。心の奥底ではずっとそう思っていた。
それでも、リリスは何も手に入れることはできなかった。
……イグニスの、助けなしでは。
レイチェルやギデオンと親しくなれたのも、屋敷の使用人たちと打ち解けられたのも、少しずつ貴族たちに歩み寄れるようになったのも、大嫌いだったアンネの素顔に気づくことができたのも……すべて、イグニスが傍に居てくれたからだ。
彼がいなくなっては、また一人ぼっちで何もできないリリスに戻ってしまう。
オズフリートだって、そんなリリスにすぐに見切りをつけるに決まっている。
「……オズ様には、わからないわ。あなたは、大切な人を失ったことなんて――」
「あるよ」
その言葉と共に、オズフリートはリリスを腕の中に閉じ込めた。
まるで、どこにも行けなくするかのように。
「誰よりも大切にしたかった人を失った。守れなかった。……長い時間、後悔したよ。だから、今度こそは君に生きていて欲しいんだ……リリス」
懇願するような声に、渦巻いていた怒りが消えていく。
どうしようもない悲しみだけが残って、リリスはオズフリートの腕の中で泣いた。
「……リリス、落ち着いたらすべてを話すよ。イグニスにも頼まれたから、だから――」
言葉の途中で、オズフリートは突然リリスを地面に押し倒した。
頭は打たないように守ってくれたが、体を打ち付け全身に痛みが走る。
「痛っ、いったいなに――!」
状況を確認しようと顔を上げ、リリスは絶句した。
リリスを守るように覆いかぶさるオズフリートの背中に、一本の矢が突き刺さっていたのだ。




