摩天楼とビスケット
目元に涙を溜めながら、半狂乱で語は叫ぶ。
「新田っ!新田ぁっ!ねぇ、どこ!?」
しかし、どこを探しても彼女が新田を見つけることは出来ない。そんなことはあってはならないのだ。それを噛み締めながら、新田は語の真隣で、ボソリと一言声を漏らした。
『……何処だろうね』
こうなることは知っていた。いつか語が自分を認識してくれなくなることくらい、簡単にわかっていた。それでも新田はその現実から目を背けたくて、語と同じく、彼女にそれを伝える覚悟を放棄して平穏にすがった。
その結果がこの様だ。語は新田を認識できない。見えもしないし、声を聞くこともかなわない。新田は成仏なんて出来ずに現世に踏みとどまっている。
新田は肩で息をしながら彼の名前を叫ぶ語に、そっと手を伸ばした。半透明な指先が綺麗に整えられた黒髪を撫でて……空を切った。
『……ごめんね』
世良新田は嘘をついていた。黒川語に嘘をついていた。最初から今に至るまで、些細で尊大な幾つもの嘘を。新田は初めて悔やむような表情で顔を伏せた。その瞬間、今まで被ってきた仮面が外れて、演技も忘れて、いつもの陰鬱さが新田に戻る。
『……君には嘘をつきたくなかったけど……いつかは、本当のことを言いたかったけど……僕には、無理だ』
世良新田に……寿命なんて存在しない。あと9日で消えるなんて嘘だ。四十九日なんて適当に作った設定で、そんなもの嘘っぱちでしかない。十九才なんてのも嘘だ。あの明るさも演技だ。笑顔なんてこの何十年見せたことがない。
そうだ。僕は――何十年も、この世界をたった一人で彷徨よってるんだ。
『そりゃそうだよね……僕は、僕を殺してるんだ。人殺しだ。そんなのが、簡単に許されるわけがないんだ』
言葉と一緒に、何十年も昔のことが甦ってくる。優秀な医師と看護婦の両親。最初から決められていた人生のレール。友達なんて作る暇もなく勉強を強制され、高校も勝手に決められ、当然クラスで浮いてはいじめを繰り返された。
何もかもを犠牲にレールに沿って勉強勉強勉強……そして、元々そんなに頭の良くなかった新田は東大医学部を当然のように受験失敗。その途端に周囲は自分を塵のように見下し、両親はこんな恥知らずの無能は知らないと絶縁。
敷かれたレールに沿って進んでみれば、ああ残念。脱線だ。線路の先は学校の屋上。壊れたレールから最後に飛び出した時には、もう全部が遅かった。
それが今では何十年と、生きていた頃よりも長くこんな場所で無駄に死に歩きを繰り返している。もう人格も何もかもが歪みかけて、自分が何者だったのかもあやふやだった。
『そんなときに、君に出会ったんだよ』
死にながら生きる新田と、生きながらにして死んでいた語。二人とも、本当は対極に居たのだ。けれども、これから命を放棄しようとする語の顔が、どこか怯えているようで、どうにも無視できなかった。思わず声を掛けてみれば、初めて声が通じた。そのときは本当に分からなかったが、今ならわかる。
『あの時君は……殆ど死んでたんだね』
屋上に立つ語はあのまま誰も声をかけなければ、本当に死んでいた。心も殆ど死んでいた。生命力など欠片ほども残っておらず、消えかけの命だった。
殆ど、死人と同じだった。
だから語は新田の声を聴けたのだ。同じく飛び降り自殺によって死に至ろうとした語だからこそ、新田の声が聞こえたのだ。死者の声が聞こえるのは、同じく死者だけだ。
だから、新田のことが彼女から消えていくのは喜ぶべきことだった。自分が消えるということは、彼女が生者に戻っているということ。生きる意思を取り戻したということだ。
そうなれば、死に損ないの嘘つきは消えるのがいい。それが一番だ。
『だから、さよならだよ――語』
新田は初めて語の名前を口にした。ずっと呼んでみたかったけれど、対人経験があまりない新田には難しかったのだ。
新田の隣で、語は未だに新田を探していた。見つかるわけが無いのに。本当は真隣で自分の名前を呼んでいるのに、聞こえすらしない。語はもう死人ではないから。もう少し生きてみよう、と確かに決意したから。
けれど――それは新田ありきの話だ。あなたが私を導いてくれるから、あなたが居てくれるから……だから私は生きていたいんだ。
「側に居てくれるって……言ってくれたのに……嘘つき!」
『……ごめんね』
「嘘つき!最低!いきなり現れて、さよならも言ってくれないで……!」
『……ごめん』
語は初めてきちんと整えて、初めて可愛いと言われるために努力した顔を涙でぐしゃぐしゃにして叫んだ。けれど、返してくれる声はない。誰も、そこには居ない。ならば――
「……死ぬから」
『……』
「またあそこから飛び降りるから……」
言うや否や、語はふらふらの足に死力を込めてあのマンションを目指し始めた。二人が初めて出会った、初めて二人が交わった、あの曇天の下を。新田はずっと無言で、走る語の後ろを追った。時折躓きながら語はマンションに走り、その階段を駆け上がって、息を切らしながら屋上にたどり着いた。
「はぁ……はぁ……」
『……』
10月9日木曜日。息を切らした少女が見上げた空は、満天の快晴だった。雲ひとつなく、染み渡るような蒼が空一杯、果ての果てまで延びている。
それを喘鳴の果てに見上げて、少女は自分の足元を見た。お世辞にも汚いとは言えない白シャツとズボン。地味めな黒い運動靴がそこにある。
少女は――語は息を整えながら前へ進み……ゆっくりと白の柵へと両手を掛けると、それを一息に乗り越えた。乗り越えてみると、ぶわっと渇いた上昇気流が綺麗な髪を持ち上げる。
「……」
『……』
今にも飛び降りることのできるように語は体勢を作った。遅れて零れてきた涙がポロリと顎から滴って、重力の虜になる。止めなければ、飛び降りてしまう。若い命が散ってしまう。……けれども。
「……ねぇ」
『……』
「……ねえ……助けて。私に……もう一度声をかけて――自殺ですかって……」
『……自殺ですか?』
「……」
『……なんてね』
語は息を殺して泣いた。後ろから掛けられる声を待った。だが、待っても待っても声が来ない。あの声が聞こえてこない。
「なんで……なんでっ……」
『……君が死にたくないからだよ。死ぬつもりが、無いから』
今にも飛び降りようとしていくせに、新田の事が見えない。つまり、死ぬつもりが無いのだ。どれだけ叫ぼうと、泣こうと、それが答えだ。
どれだけ苦しくても、悲しくても、語は死ぬことができない。あの人に……新田に答えたから。生きてみようという言葉に、うん、と一つ簡単な答えをあの時返したから。だから語は死ねないのだ。新田に会えないのだ。
死にたくて死にたくて、死ねない。いつかの二律背反を逆向きに抱えて、語は思わずしゃがみこんだ。柵の向こう側で膝を抱えて涙を拭おうとした。だが、その前にくしゃりと音がした。
「……ぁ」
『……まだ、持ってたんだ』
ビスケット。いつか新田と二人で作ったお菓子。そのときはお腹が一杯で食べれなかったので、袋に入れて保存していたのだ。毎日少しずつ食べてはいたが、新田が消えてしまうことを悟ってから、食べるに食べれず残っていたそれ。今となっては……これが最後に新田の存在を証明してくれる唯一の物だ。
宝物を取り出すように語はポケットからビスケットの袋を取り出して、その一つを指で摘まんだ。そして少しの間眺めると、震える唇でそれを挟んで、パリッとかじった。
「……美味しい」
『……ありがとう』
屋上に一人腰かけて、語はもう一口ビスケットをかじった。涙の味がして、砂糖の甘さがあって……大切な思い出が溢れてきて、美味しい。もう一口を噛ろうと、語が口を開いたとき。
――声が、聞こえた。
「え、あ、その……自殺ですか?」
「……ぇ?」
語はすべての筋肉を硬直させた。顔も腕も呼吸の筋肉も固めて、語は思わず後ろに振り返った。涙に滲んだ視界で見上げたのは――見知らぬ少年。新田では……なかった。
「あの、えーと……お話、とかできますか?」
「……」
そうだよね、と語は思った。そんなおとぎ話みたいなこと、あるわけがないんだ。知ってるよ。知ってる。ずっとずっと、そんなことを妄想して、誰だって助けてくれなかった。
「……あの、だ、大丈夫ですか?」
「……そっか」
もう、会えないんだね。語はようやく理解した。子供のように駄々をこねて、叫んで、漸く分かったのだ。もう、新田には会えないんだ、と。それを理解した瞬間、語の呼吸は沈静化し、涙も静かに収まった。
『……大丈夫、ずっと見守ってるよ』
「……」
ずっと無言を保っていた新田が、柔らかな笑みを浮かべながら言った。初めての、本当に自然な笑顔だ。その言葉に返事はない。けれど、大丈夫だ。もう、慣れている。新田の目の前で、ゆっくりと語が立ち上がった。片手にはビスケットの袋、もう片手には白い柵。そして――背後に摩天楼を携えて、語は顔を上げ、笑った。思わず少年はその笑顔に釘付けになり、声も出なくなった。それだけ美しく、可憐で、けれど果てしなく遠い笑顔だった。
そんな笑顔の最後に一粒だけ、淡い大粒の涙が語の頬を伝った。それが地面に落ちる一瞬の前に、語は静かにこう言った。
「……ねえ、あなた。ビスケットって……好き?」
摩天楼の北風が、柔らかくその言葉を揺らした。
ご一読、ありがとうございました。