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摩天楼とビスケット  作者: 平谷望
6/7

砂糖みたいな


 新田が部屋に戻ると、タオルを首に掛けて胡座をかいた語がいた。既に着替えは終わっており、暇そうに天井を見つめている。湿った髪と肌は年齢相応に若々しく、やはり端正な顔立ちを際立たせていた。

 思わず一瞬、誰だ?と新田が思ってしまうほど、語は別人の雰囲気を纏っている。やはり、ちゃんとした格好をすれば可愛いのだ。


 新田が何度か瞬きを繰り返していると、視線からか語が新田に気がついた。


「……居るなら言って」


『あー……ごめん。ちょっと――』 


 ビックリして、と言いそうになって、新田はそれを飲み込んだ。分からないが、語は自分が美しい見た目であることを嫌っている。ならばこの言葉は地雷を踏むに違いない。新田はギリギリで踏みとどまったが、しかし、語には気づかれてしまったようだ。

 なんとなく察したような顔をしている。


「……別に、いいよ」


『いや……うん』


 新田がそう返すと、部屋に沈黙が芽生えた。どちらも、何も言わない。語は話す話題がない。新田は話す勇気がない。会話を始めるのに必要な勇気の量は、沈黙の時間に比例する。

 なんとか会話を結ぼうと新田は語を見た。何かそこに会話の芽となる物がないか探したのだ。


 だが、その行為で見つけることが出来たのは、またもや覗く体の傷。新田がそれに固まるのを一瞥した語は、ゆっくりとテーブルに肘を置いて、口を開いた。


「……気になる?」


『…………うん』


 長い沈黙の後、新田がそう答えると、語は黙り込んだ。機嫌を損ねたかと新田はびくびくし始めたが、語は至って冷静に言葉を続けた。


「……よく、爪で引っ掻かれるの」


『……誰に?』


「……お父さんの同僚に、そういう人が居るの」


 まさかの答えに、新田が固まっていると、語がはぁ、とため息を吐いた。その瞳はひどく冷めていて、感情が消えてしまったようだった。


「……私ね、お父さんとお母さんが別居してるの」


『……』


 語は、至って冷静に、冷徹に言葉を続けた。


「……お父さんがよくお酒に酔ってお母さんと私を叩くから。……でも、離婚したら今度はお金の為にお母さんが病気になって……」


 つまらない、つまらない話、と語は言った。酒癖の悪い父親に耐えかねて母が娘を連れて夜逃げ。逃げたはいいものの、生活費を稼ぐために病弱な母がパートやアルバイトを掛け持ちして体を壊し、帰らぬ人に。残された娘は父親に捕まって――


「……色々、させられた。お父さん以外にも……沢山。学校でも、私が可愛いからって虐められて……クラスの男子にだって……」


『……』


「……もう、どうでもよかった。生きてるのが苦しくて……怖くて……それで、私は――」


 あの柵を乗り越えたの。


 ペンキの剥げかけた、白い柵を新田は思い出した。そして同時に、あのときの語の瞳を。どこまでも濁った、深海のような瞳を。彼女には意味が無かったのだ。生きる意味が、これっぽっちも無かった。死んだ方がマシだとすら思えた。生きる苦痛を耐えしのぎ、その激流の最中掴む筈の希望が、一切無かったのだ。


 そんな絶望をあっさりと口にした語は、もうなんとも思っていない、といった顔をしていた。いや、正確にはそんな顔を繕っていた。新田がちらりと見た語の左手はぶり返してきた絶望に、ウサギの如く震えていた。口元を見れば、唇の裏を噛んでいることが分かった。


 その様子を見て、ああ、そうか、と新田は思わず呟いた。漸く、判った。


『どうして僕が君を助けたいと、こんなに思ったのか……分かったよ。どうして君が死にたいと思っているのに、死にたく無さそうなのか、やっと理解した』


 語は思わずあっけに取られたような顔をして、一つ息を吸い込み、こう聞いた。


「……どうして?」


『君はずっと――誰かに助けて欲しかったんだ。初めての知ったよ……人間は、死にたいっていう気持ちと、死にたくないって気持ちを二つ……抱えることができるんだ』


「……」


『だから僕は、君を……助けなきゃいけないと思ってたんだ』


「……そっか、私……ずっと死にたくて、死にたくなかったんだ」


 語は屋上から見下ろした光景を思い出した。そこから飛び降りようとした自分と……後ろから聞こえてきた新田の声に、固まった自分の体を。あの瞬間、語は嬉しかったのだ。誰かが自分を止めてくれるんじゃないかとか、助けてくれるんじゃないかと体が止まったのだ。


 だから新田の言葉に易々と頷いて、己の名前を名乗ったのだ。


 突き立てたナイフが易々と通った理由を知った新田は、長いパズルを解き終わったような顔をした。すべてを俯瞰するような、透き通った顔だ。

 語を覆う闇を覗き込んだ新田は、続けていつもの笑顔になって、語に優しく話しかけた。


『なぁ、君……だったらさ、僕が――僕が、君を助けるよ』


「……ぇ」


 伏せていた顔を上げた語は、こちらに笑いかける新田に震えた声を漏らした。そんな語に、新田は大丈夫、と一言添えて言った。


『言っただろう?僕が君に死にたくないって言わせてやるって。その言葉を聞くまで……僕は消えるに消えられないんだ』


 新田の言葉に語は暫く無言で新田を見つめていたが、段々とその両目に淡い光が滲み……ゆっくりと大粒の涙を溢した。一度その分厚い堰を越えてしまえば、涙は語の制御を振り払い、大きく溢れ出た。慌てて語はそれらを両手で拭おうとするが、涙は白魚のような指先を通り抜けて頬を伝ってしまう。


 静かに顎のラインをなぞる涙へ、そっと透明な指が添えられる。それが涙を塞き止めることは出来ないが、新田の指は涙よりも大切なものを、そっと押さえていた。

 さっきよりも近い距離で濡れた語の瞳を見つめた新田は、消耗品の勇気をありったけ振り絞って言った。


『僕が……君のそばに居るから。無駄に集めた知識で、君を導くから。だからもう少し……生きてみよう?』


 語は初めて新田の前で顔を歪めた。いつもの無表情も、無愛想な仏頂面も――それら全部を殴り捨てるようなぐしゃぐしゃな顔で、ぎりりと奥歯を噛みしめながら、語はか細い声でこう答えた。


「…………うん」


 止まらない涙を拭いながら、死にたがりな少女は初めて生きたいと口にした。余命マイナスな幽霊は、その涙が止まるまでずっと笑顔を絶やさなかった。いつもの柔和な笑みで、快活に目元を曲げて、少女の側を離れなかった。

 そして、いつかの自分が通った暗い道を目の前の彼女が通らないよう、深く彼の神に祈った。


 

 ――――――



 語の涙が止まったのを確認した新田は、語を警察署に連れていった。最初は不安や恐怖に駆られていた語だったが、隣で笑う新田を見れば、どうにかなるような気がした。

 警察署での事情聴取を経て、語は警察の保護を受けることになった。


 一時保護所には語の他にも何人か保護された子供が居たが、総じて初めて見た語のような濁った瞳をしていた。父親、将来、学校、これからについての不安がまたもや語を取り巻いたが、僕に任せてよ、と新田は頼もしく笑った。

 施設の子供は多くが精神に傷を追っていたので、新田と話す語も変な目で見られることはあまりなかった。


 法律関係にも知識を広めていた新田は、これからのことについて事細かに語に説明をした。あまりにも説明が多いので、語が目を回してしまう程である。

 それが終わると、二人はずっと話を続けていた。


 新田が好きな食べ物は唐揚げだということ。

 語が次に作ってみたいお菓子はケーキだということ。

 新田が知っている世界の不思議なお菓子について。

 語は葱が嫌いだということ。

 新田は生前、あまり頭が良くなかったということ。

 犬派か猫派か。

 コンソメが何でできているのかについて。 


 そんな他愛のない話を、二人は噛み締めるように続けた。漸く偽りのない、お互いの地雷や隠し事について怯える必要のない……そんな関係になれたのだ。

 新田が見る語は以前に比べて柔らかな表情を浮かべる事が多くなり、時折くすりと漏らす笑顔が堪らなく可愛らしかった。語も語で、新田に可愛いと呟かれてもこそばゆいだけで不快感はなく、なんだか変な気分だった。


 けれども、語には一つだけ気になることがあった。ずばり言うのなら、新田の過去についてだ。その事についてやんわりと尋ねると、新田は困ったような笑顔で話題を逸らしてくる。

 他人の過去になんて一切興味がなかった筈なのに、どうしてか新田の過去だけは無性に知りたくて、けれど無理に教えてもらいたくはない。そんなジレンマが語をやきもきさせた。


「……ちょっと位、昔のこと……教えてくれない?」


『あー……まあ、友達が少なかったかな。あ、そういえば、僕の好きな本に『老人と海』って本があってね』


「……」


 こんな具合に、いつも話題から逃げられてしまう。普段ならばこれ程強引に語が過去を聞くことはない。そんな積極性を、語は生憎持ち合わせていないのである。そんな彼女をここまで強引にさせるのは何か。


 時間だ。


 語から見る新田の姿は、淡く光り段々と薄くなっている。彼の『余命』といえる物が近づいているのだろう。元々四十九日までの命だった。成仏までに残された時間があと幾何しか無いことを語は悟っていたのだ。

 新田に、段々とあなたが消えている、と伝えると、新田は決まって嬉しいような悲しいような……そんな笑顔を浮かべるのだ。その笑顔を見ると、語は心の底が苦しくなって、強引に彼のことを知ろうとしてしまうのだ。その行為は、余命の少ない病人がやりたいことを急いで消化していく様に似ていた。


 初めて自分を理解してくれた、助けてくれた人間が消えていく。本来ならば喜ぶべきなのだ。何にも触れることの出来ない虚無感を終えることが出来るのなら、語は手放しで新田を送り出すべきだった。けれども、心の声がそれを否定する。


 ――もっと、一緒に居て欲しい。


 薄れていく新田を見ていると、彼がこれからについて教えてくれたのが、まるで自分が消える前の準備のようで、教えてくれる全部が置き土産のような気がして……語は苦しくなった。


 保護されてから数日後、語の父親が同僚達と共に捕まった。本来ならば安堵のため息を吐くところだが、語にはそれよりも心を奪う出来事があった。


 新田の声が、聞こえなくなってきた。


『それ……さ、結局どうして海が……いのかっていうと、空の色を――』


「ま、待って……もう一度、言ってくれる?」


『……うん』


 新田の話す言葉が少しずつ欠けていって、言葉が聞こえなくなっていく。もう一度、と伝える度に、新田はあの笑顔を浮かべるので、語は苦しくてしょうがなかった。

 まだ、あと何日か残っている。そうやって語が自分の心を沈静化させても、欠けた声と笑顔がそれを上回るのだ。それでも語はなんとか持ち前のポーカーフェイスを被っていた。どうか時間が止まってくれればと思いながら。



 そして、語が新田に声を掛けられたあの日から一週間。余命二日を残して、新田はさよならも言わずに消えてしまった。あっさりとした、あっさりとした幕切れだった。いつものようにぱっちりと目を覚ました語がどこを探しても、新田は居なかった。


 天井にも、床下にも、タンスの裏にも、ベッドの下にも、屋根裏にも、道路の傍らにも、台所にだって新田は居なかった。あの笑顔は、あの頼もしい声はどこにもなかった。

 語は半狂乱になりながら新田の名前を叫び、狂ったように走り回って新田を探したが、新田は居なかった。世良新田は消えてしまったのだ。


 ――黒川語()世界から。

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