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摩天楼とビスケット  作者: 平谷望
2/7

半透明な魚の目


 場所と時刻は変わって、暗い五畳間に二人は居た。床にはカップラーメンや菓子パンの包装が散らばり、脱いだ服もそのままになっている。その上電気が止められているのか電灯までつかないようで、完全に汚部屋とも言うべき状態だった。

 自殺する人間の部屋がまともな訳がないと内心で理解しつつも、あまりの惨状に思わず新田は黙り込んでしまった。


 陰気な部屋に黙して立ち尽くす幽霊の姿は実に絵になっており、されどもそれを褒めるような人間は当然この部屋に居ない。件の少女はどこか気まずそうな表情で、ゴミの間に見いだした隙間に両足を突き立てている。


『……うん、まあ……うん』


「……死ぬつもりだったし、いいかなって」


 言われずともわかる。新田から見て、語の年齢は15か16といったところ。肩甲骨辺りまで伸びた黒髪はかなり傷んでおり、余計な枝毛が幾つも跳ねていた。ちらりと見た足や手の爪も随分と長く、とてもではないが彼女と同じ年頃の少女と同等とは言い難い。


 新田が見回した部屋は淀んだ空気でとぐろを巻いており、尚且つ狭かった。玄関口にキッチンとトイレ一体のシャワールームがあり、そしてこの部屋がある。所謂五畳間であった。

 語は一向に口に出さないが、彼女の親は……かなり彼女に無頓着なのだな、と新田は思った。思春期真っ只中の少女が暮らす環境ではない。付け加えて言えば、今は憶測だが彼女は独り暮らしをしているのかもしれない。


 さまざまな点に半透明な視線を揺らして新田は考察した。それを手持ち無沙汰に見ていた語は、流石に沈黙が耐えきれなかったのか、静かに床を片付け始めた。つい癖で新田も手伝おうとしたが、残念ながらその右手は空を切る。


『あ』


「……物には触れないんだ」


『うん。誰かに触ったりも出来ないね。今だって床に立ってるんじゃなくて、地面から浮いてるだけだから』


 そういいながら新田は地面に胴体まで貫通させた。冗談っぽく声を上げながら部屋の床にピタッと上体をくっ付けると、ハロウィンにぴったりな上半身だけの死体になった。そんな新田を、語は興味なさげに一瞥して、部屋のゴミを片付けた。随分と手際が良い。


 遂になにもすることが無くなった語は、床の上に胡座をかいて、部屋の中央に屹立していたごみ山から発掘された、足の短いテーブルに肘をついた。その時、語の内股に何か傷のような物が見えたのを新田はちらりとだけ確認した。


『えーっと……窓開けて換気とかしないの?』


「……しない」


『そう……』


 積もっていた埃が暴れだす部屋の空気に、視覚的不快感を感じた新田が換気を提案したが、どこか機嫌の悪そうな語に突っぱねられた。続けて、質問を返すように語は口を開いた。


「それで……どうするの?」


『あ、うん。えーと、確認だけど……今いくら位お金を持ってるかな?』


「……ちょっと待って」


 それだけ言って、語は台所へ向かった。向かったと言っても歩いて数歩といったところに台所はある。語はコンロの下の戸棚を開けて、更に幾つか戸棚を開けて何かを確認した。

 そして開けた戸棚を丁寧に閉めると、二枚の紙切れと幾つかの硬貨を両手に、またテーブルに戻ってきた。


 チャリリ。


 努めて優しく置かれた金額は、二万と二百十五円。二万あれば……と新田が脳に、条件と情報の照らし合わせを行っていると、そっぽを向いた語が乾いた唇を揺らした。


「……貯めてたの。もう……必要なくなったって思ってたけど」


『……うん、頑張ったね』


「……なにそれ」


『あ、いや……なんでもない』


 あまりにも自虐的なジャブに、慌てて新田は優しく褒める言葉を口に出したが、あまり良いとは言えない言葉だったようだ。語は訝しさと不愉快さに片眉をひそめている。優しい言葉から始めようと考えていた新田は、出鼻を挫かれて気まずかった。


 そんな重い空気を発散させるために、新田は一度空気を吸って、幽霊の声帯から声を放った。


『えーっと、それじゃあ……ちょっと出掛けよっか』


「……」


『場所はね、水族館だよ』


 なんと、今なら修学旅行にちなんで学生は入場無料!と笑顔と共に新田は言ったが、どうやらそれも語にとって良いとは言えない選択だったようだ。様々な感情――勿論それらは負のベクトルを含んでいる――を滲ませた表情で、語は静かに目線を逸らした。



 昼下がりの街道を、一人の少女が歩いている。その隣には、誰にも見ることの出来ない幽霊……新田が緊張したような面持ちで追従していた。新田の隣を歩く語は、先程とは違うまともな服装になっていたが、そのかわりに表情へ雲が指している。

 意味のよくわからない英字のプリントされた青いシャツとデニムのズボン。付け加えて仏頂面を装備した語は、明らかに話しかけづらい雰囲気を放っており、新田はここまでの道中うまく会話が出来ていなかった。


 天気の話をしようと空を見上げてみるが、上は生憎会話に向かない曇り空。とはいえ語自身についての話をすれば、いつ地雷を踏み抜くかは時間の問題。となれば水族館の話をするのがベターなのだろうが、どうやら彼女は水族館に良い印象が無いらしい。

 散々に悩んだ挙げ句、新田は語に水族館の話を振ることに決めた。


『……好きな魚とか、いる?』


「……鮭とか」


『美味しいから?』


「まあ」


 話しかけてみて気がついたが、この会話は周りからすればただの独り言だ。幸い周りに人は居なかったが、道路には車が走っているし、水族館の中ともなれば人が多いに違いない。

 どうやら新田の表情から同じことを思ったらしい語がぼそりとこう言った。


「別に……気にしなくていいよ。誰にどう思われたって、もうどうでもいいし」


『えーっと……うん』


 それじゃあダメじゃない?と新田は常識的な考えを口にしようとしたが、その手前で打算的な思考が待ったを掛けた。彼女が抱える自分への殺意を解き明かし、それを取り落とさせるには間違いなく会話が必要だ。それを自ら制限しては、中々難しいものがある。そんな思考を経て、新田はこくりとその言葉に乗った。



『あ、そこ右』


「……」


『おー、見えてきた。んー、あまり人が居なさそう』


「平日だし……」


 そっか、と新田は返した。視線の先の水族館は見た目の大きさの割には人通りが少なく、前に新田がふらりと観賞した時に比べて随分と寂しそうだった。だが、平日ならばそれもやむ無しだろう。この場合人が少ないのはかえって良く働きそうだ。


 新田の指示で語は受け付けに向かい、無事に水族館へと入ることができた。


 水族館の中は雰囲気を立たせる為に薄暗く、足元を走る誘導灯が青いガラスにそって並んでいる。中に入ってみるとやはり人影は疎らで、ゆっくりと観賞に勤しむことが出来そうだ。

 さて、と新田が語に振り返ると、語は珍しく僅かに驚いたような顔をして新田を見ている。


『ん?僕がどうかした?』


「……光ってる」


『……え』


 語が言うには、新田の周りが仄かに発光しているように見えるらしい。それを聞いた新田は心底驚き、続いて自分の体を見下ろして首をかしげた。やはり、霊的な視線を持っている人間の見方は違うなぁ、と驚きながら納得していたのだ。


『ま、それはそれとして……魚を見ようよ。水族館だし』


「……うん」


 僅かに発光する新田に連れられ、語は水族館の中を歩きだした。


 やはり大きな水族館なだけあって、大きな水槽を泳ぐ魚は圧巻の一言で、新田は見るたびに感嘆の声をあげていた。特に鮫の水槽の前を通るときは随分とはしゃいだ。対象的に語は無言で魚を見上げており、時折訝しげな視線を新田に向けていた。

 実はこの男、もしかして私を連れて水族館に行きたかっただけじゃないのか?と。  


『ふぉぉぉ……マンタだ。何マンタか知らないけど』


「オニイトマキエイ……」


 目の前の巨大なエイの名称を、同じく目の前にあるパネルを読み上げて言った語が、片眉を上げながら口を開いた。


「そんなに見たいなら……近くで見ればいいのに」


『え……あぁ、そっか。ガラスを越えて……って、無理無理』


「なんで?」


『めっちゃ怖い』


 あまりにも素朴な答えに、思わず語は微妙な顔をしてしまった。そのあとも気分がよさそうな新田の後を、語が着いていくという構図が続いた。

 暫くして、真上を魚が泳ぐ長いトンネルで、ようやく落ち着いてきた新田が一旦立ち止まり、語に声をかけた。


『君は、水族館……嫌いだったりする?』


「……嫌いじゃない」


『そう……いや、なんだか嫌に見えてさ』


「……」


 驚くほど静かなトンネルだった。上を少し見上げれば、青魚が大きな群れをなして飛んでいて、上から淡く降り注ぐ青い光は水を透過して更に際立っている。そんな光が暗い足元に不規則な模様を描き出す静寂に、水の流動する音だけが一つ聞こえた。

 水槽の水が動く音だろうか。いや、それはないだろう。水槽とトンネルの間には分厚いガラスが蓋をしている。耳を澄ましても、到底音など聞こえない。


 音の正体は、語だった。柔らかく、色素の薄い喉で唾を嚥下した音だった。


「……お母さんと、良く来た場所だった」


『……』


 今度は新田が黙る番だった。幾つか不正解を引き当てた新田だったが、ようやく正しい正解を引き当てることができた。水槽の青に目を細めて、語は呟くように言った。


「なんだか――」


 懐かしくて。そんな言葉を軽く飲み込んで、語はこう続けた。


「……なんでもない」


『……そっか。それじゃあ、あと少し……先に進んでみよう』


 言葉の先が気になるが、そこを聞くのは野暮という奴だろう、と新田は思った。いつか、話したいときに話してくれればいい。

 そう考えを切って、出来れば君の笑顔が見れたりすると僕は嬉しいなぁ、と新田は笑った。背後の光を受けてより一層ぼやけた笑顔に、語は思わず驚いた顔をして若干呆れた。

 その表情に首を傾げながら、もう一度新田は歩き始めた。その後ろを、ゆっくりと語が着いていく。先程と歩く距離は全く変わらないが、二人の間にある空気が少しだけ緩んだことは、魚の目にだって明らかだった。

 

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