摩天楼にて
宜しくお願い致します。
10月2日木曜日。少女が見上げた空には薄い雲が張っていた。曇っているというより、晴れていないだけといった雲だ。太陽はそんな雲に埋もれて、曖昧な光の輪っかになっている。
それをぼーっと見上げて、少女は自分の足元を見た。お世辞ででも綺麗とは言えない白シャツとズボン。面倒だからと靴は履いてない。
形の悪い裸足で踏みしめてるのは、マンションの屋上。両手は準備万端という感じで錆びた柵に掛けられ、あとは覚悟を決めるだけであった。
「……」
少女にとって、生きるということ自体が苦痛だった。白々しく薄っぺらな一生への諦観。それを隠すことなく瞳に濁らせて、少女は重く唾を飲んだ
続けて、カサカサの唇から、ふっと息を伸ばして、両足を柵に掛ける。柵を乗り越えてみると、ぶわっと濡れた上昇気流を長い髪で感じた。
きっと、これから雨が降るんだろう、と少女はぼんやりとした思考を浮かべた。暗い双眸が見下した町には黒と白の車が蟻のように並んでおり、二人一組な人影が一つ、傘を片手に歩いていた。
少女に辞世の句を読むつもりは無かった。遺書も面倒だから書いていない。それだけのことを前もってするだけの価値が、この行為にあるとは思えなかったからだ。付け加えて、その言葉を当てるような『大切な人』が、少女にはこれっぽっちも居ない。
思い出したら、無性に両足が疼いたのだろう。二足一心のそれは、少女にここから一歩踏み出したい、と訴えてきている。
ああ、そう、と少女は短い返事を頭で返した。そして、この凶行を止めるなんて野暮な思考を忘れ去って、これまでのことも遠くに忘れ去って、少女は静かな重力に全身を――
『え、ちょ……え』
――その手前で、全身が固まった。重心が踵に向かって、少女の体はその場に縫い付けられる。少女の背後に唯一存在している屋上への扉には、少女が椅子が咬ませてあった。つまり、ここに人間が来れるわけがないのだ。
『じ……自殺……ですか?』
少女に向かって、再び男の声は言った。やっぱりその声はマイクを使ったようなノイズ混じりで、あまりの違和感と幾分の驚きに、少女は振り返った。
「……ぇ」
『……え?』
少女が見た男の体はうす緑色に透けていて、下半身が屋上の床にめり込んでいた。めり込んでいたというより、貫通していた。こんなものを見ては声を出さない訳にはいかなく、小さく一文字だけ声を漏らした少女に、男の方もビックリしたような顔をしている。
『……う、嘘でしょ。君……僕のこと見える?』
「……」
タチの悪い幻覚か、妄想か。それともまさか……幽霊?さまざまな考察が少女の脳裏を駆け抜けた。絡まった思考のまま、とにかく驚きに身を任せて少女は首を縦に振った。すると男は心底嬉しそうな顔をした。
『いやぁ、初めてだよ。僕のこと見える人』
「……」
『あ、えーと……うん。君、これから飛び降り……とかする感じ……?』
少女自身には答えるつもりが無かったのだが、さっき首を縦に振ったのが残っていたのか、間違えてまた頷いてしまった。すると男はやっぱりなぁ、と神妙に頷いて、何かを考えるような仕草をした。
『……あー、止めといた方がいいと思うなぁ』
「……」
『実は僕も飛び降り自殺しちゃってさ、見た目通り幽霊なんだけど……死ぬ瞬間ってすごく痛いし、死んでも結局僕みたいに天国にはいけないみたいなんだ』
誰にどんなことを言われても、少女は自殺を辞めるつもりはなかった。形だけの同情など見苦しい上癪に触る。合わせて、勝手に自分の事を分かった気になられるのが気持ち悪かったからだ。君の将来がー、とか生きていればいつかー、とか糞食らえな言葉だと思っていた。
けれど、流石に死んだ後の人間から説得されるとは思わず、なんだか納得してしまいそうだった。けれど、だからといってこれから先を生きるつもりなど、少女にはさらさらなかった。もう少女は少女を死んだものだと思っているし、これからそうなることは決定事項だった。
一回自殺したということから、そんな少女の心が分かってたのか、男はなんとか少女の自殺を止めようと言葉を考えている。
『えーっと……辛いのは分かるよ。僕も同じっていうか、その先まで行っちゃったし。でも、その上で忠告するよ。間違いなく、いまここで死ぬことはオススメしない』
「……それで、生きろって……言うの?」
『……えーっと』
少女の視線の先で、男の表情が曇った。言葉に悩んでいるのだろう。けれど、少女を説得できる言葉は付け焼き刃で生めるものではない。
そんな言葉で救われるなら、空っぽな良心で救われるなら、少女はこんな所に立っていない。小さな爪先は宙を向いていないのだ。
口ごもった男に、少女は一人で納得をして、視線を切った。くるりと背中が男の前に向けられ、少女の命の灯火が淡く揺らめく。
本物かどうか分からないけど、死ぬ前に幽霊が見れたし、もういいや。走馬灯の代わりにそんな独り言を反芻して、少女の体重が緩やかに爪先へと移動していく。自分の唾を最後の晩餐にして、飛び降りる。飛び降りる……つもりだった。
男の半透明で震えた声が、少女の耳に届く。
『ぼ、僕! ……僕、もうすぐ死ぬんだ』
「……」
思わず少女の体が固まった。死ぬ?これから死ぬなら、今は一体どんな状態なの?そんな見えない突っかかりが、殆ど平坦な少女の心に引っ掛かった。
畳み掛けるように、男は少女に向けて口を開く。
『四十九日って知ってるかな?』
「……」
『えーっと、まあ、簡単に言ったら死んでから数えて四十九日目に、来世が決められるらしいんだけど……僕が死んでから……四十日経ってるんだ』
僕には感覚で分かるんだけど、と男は所々舌をつっかえさせながらなんとか言葉を回した。
『家族が線香上げる度に体が薄くなってくし、お坊さんがお経唱えてるのを聞くだけで体が小さくなってるんだ。このまま行くと……多分後九日で――僕は消えるかもしれない』
「……だから?」
勝手に身の上話をされて、少女はあまりいい気分ではなかった。だったら私に構わないで、と心底思ったし、そもそも興味が無かった。一応死んだ後の話だからと聞いてみたが、時間の無駄だったようだ。
そんな少女の飽きを正面から受け止めて、その上で男は大声を張り上げた。チェックメイトを宣言するような、全身全霊の宣誓だった。
『だから――君の時間を僕にくれないか!』
「……え?」
『僕の寿命はマイナス九日だ。いずれ消える。君もそうだろう?近い寿命が無くたって、そのうち自殺するはずだ。だったら、その時間を僕にくれないか?』
「……意味分かんないし、なんで私がそんなこと……」
どうせ要らないならくれよ、と男は言った。少女が自分の命と時間を、四捨五入の如く切り捨ててゼロの値札を貼るのなら、それを少しだけ買わせてくれと。
けれど、少女は命を男に売ったつもりは無いし、これから売るつもりも更々ない。なのに、どうしてか男は一歩踏み込んできた。さながら借金を棚に上げながら金を借りようとするような、無理矢理な言葉を持って。
『九日僕にくれたら……ああ、君に『死にたくない』って言わせてあげるよ。どうにかして、やってみる』
「……そんなの、無理に決まってる。お互いの名前だって知らないのに――」
『――世良新田だ。僕の名前は世良新田。安心してよ。死んでから四十日、あちこち歩き回ってて、ここら辺には詳しいんだ』
たった九日、僕に売ってくれ。もしそれでダメなら死んでくれたっていいから。まるで通信販売のような台詞を、新田は大真面目に言った。それを投げ掛けられた少女は堪ったものではない。当然この場所に立つまでに幾つもの葛藤があったし、その上で自殺を選択したというのに、またもや選択を迫られている。
そして、驚くべきことにその選択は、数時間前の覚悟を覆そうとしていた。たった九日なら、という気持ちが湧き始めていたのだ。そこまでの啖呵を切るのなら、乗ってみようか。いや、ここから飛び降りると決めたはずだろう。
二つの心は少女の胸中を百足のように這い回って、そうして一つの言葉に変わった。
「……なんで」
『え……?』
「なんで、私をそんなに助けようとするの?」
新田は半透明な瞳をぱちぱちと瞬かせた。そして一瞬考えるような仕草をしてから、こう言った。
『……僕みたいな情けない思いをさせたくないっていうお節介もあるんだけど……うーん』
「……何?」
『……一番は――君が死にたく無さそうに見えたから、かなぁ』
「……そんなわけ無い」
あなたに止められなかったら、本当に落ちるつもりだった。確固たる口調と、それに追従する言葉の重みを持って少女は言った。実際、新田に止められなければ、少女の体は地面に平たく伸びる赤い芸術作品になっていただろう。
それに、今でなくてもいつだって死ぬ機会はある。腐り落ちた少女の心がこの世からの解放を望んでいる限り、彼女が宙を舞う未来を止めることは不可能に近いだろう。
けれども、新田は首を傾げながら言葉を続けた。
『そうなんだよね。死にたくなさそうだったけど、きっと死ぬつもりだったんだと思う。……でも、嫌だなぁって顔、してたような……』
うーん、と新田は唸った。ちらりと少女が振り返った先で、真剣に先刻の記憶を掘り返そうとしている。しかし、どうにもうまくいかなかったらしく、ごめんね、と新田は謝りながら笑った。
新田の生半可で曖昧な言葉は、例えるならば石で作ったナイフのようだった。少女の心という城壁に対して、ちんけな短剣一本で新田は攻め上げてきたのだ。
本来ならば崩れるはずのない固い壁。けれども、どうしてか突き立てた言葉は確かに少女へと届いていた。
もし……この言葉に霊的な力が働いていたら、随分と狡い男だ。そんなことを思いながら、少女はゆっくりと新田に振り返った。振り返った先の新田は流石に地面からは抜けていたが、その両足は地面に付く前に霧散しており、典型的な幽霊像がそこにある。
地面から浮いた新田は、急に振り返ってきた少女に驚いて表情を動かすが、そこから反射的な言葉が漏れてくる寸前に、仕返しをするように少女は口を開いた。
「……黒川語」
『……んぇ?』
「私の名前」
それだけを簡潔に口に出した語に、新田は遅れて状況を理解した。続いて、なんとかつっかえる舌を宥めて気の利いた挨拶でもしようとしたのだが、急にそんな言葉が浮かぶわけもなく、意味不明な母音だけがぶわりと揺れながら伝わった。
『あ、え、あー……』
「……期待はずれは勘弁してね」
『う……うん。なんとか……頑張る』
淡々とした声の語に、これからが本番だと理解した新田が神妙に笑った。真剣な目元と嬉しそうな口元のギャップに語は思わず不思議そうな顔をしたが、慌ててそれを取り落とし、深呼吸を一つに目の前の柵に手を掛けた。先刻跨いだ場所を、もう一度進むのだ。先程とは全く逆の目的と、変わらぬ意思を持って。
語の背中に埋もれる太陽が、ほんの一瞬――陽光をちらつかせたように、新田は見えた。