聖女は悪女になりましたっ
東の大国イスタリアと西の大国メトロディア、それに挟まれるようにしてその小さな国はあった。トロンと呼ばれるその国は不可侵協定が結ばれた特殊な地域だ。その昔、何度攻めても聖女の結界に阻まれ、王都に攻め入れなかったからだと言われている。
トロンの王都中央部、王城からいくばくか離れたところに、その塔は立っていた。塔の最上階には儀式の間と呼ばれる開けた空間とそこから扉一枚隔てた聖女の私室がある。儀式の間には大きな鏡が置かれ、部屋の中央には人が抱え込めるくらいの大きさの結界石がはめ込まれていた。
今代の聖女アメリにとってこれが自分の知る世界の全てだった。
アメリの1日は鐘の音と共に始まる。下の階に控えて上がってこない神官たちが鐘を鳴らしてけたたましく起こすのだ。そうしてたった一人で結界石の前に跪き、昼の鐘が鳴るまで祈り、また夜の鐘が鳴るまで祈る。
白金色の髪に紫の瞳をした彼女が祈るのは、さながら月の女神のようだったが、それを見るものは誰もいない。いつものことだ。
彼女は孤児だった。神殿に引き取られてしばらくは神官見習いと一緒に食事をしたり、読み書きや作法を習ったりしていた。
そんな折、先代の聖女が倒れた。
この空間に突然放り込まれることとなったアメリは、はじめのころ、抵抗した。お祈りをしなかったり、ここから出してと泣きわめいたりした。しかし、下の階にいる神官たちはなぜか顔も見せないのにアメリがさぼったことを知っていて容赦無く打たれた。
彼らは口々に言った。
「結界が緩んだ。この国が滅んだらお前のせいだ」
と。
それからアメリはもう抵抗することを止めた。彼女はもう18歳になる。世の中の同年代の者たちは結婚し、子供を産み、家庭を築いていることだろう。
彼女の感情は凍りつき、いつ表情らしいものを浮かべたのかさえ思い出せなかった。
夕刻の鐘が鳴る。祈りをやめ、いつものように、入り口に置かれた冷めきったパンとスープを取りに行く。彼女が簡素な寝台の置かれた私室へ下がろうとしたときだ。
「嘆かわしいことだな。このようなことをまだ続けているとは」
後ろから艶のある男性の声がした。アメリはびっくりして食事を取り落としそうになったが、久しぶりにかけられた声にギギギっと音がするくらいゆっくりと振り向いた。
鏡だ。
アメリの身長より大きなあの儀式の間の鏡に男性が映っている。黒い肩下まであるつややかな髪、切れ長の——赤い瞳。
「食事を先に済ませるといい。また来る」
彼がそれだけ告げると、鏡は鏡に戻った。
アメリはしばらく動けなかった。が、とりあえず、もそもそと食事を始めることにした。赤い瞳は魔の象徴だ。聖女である自分の敵である、とされている。だが、彼女は思い出してしまった。毎日が死にそうなほどにつまらないと感じていたことを。
彼はまた来ると言った。きっと鏡の前で待てば話ができるのだろう。一度だけ——話してみようかな。あまりの退屈さに魔が差してしまったのだと自分に言い訳して。
夜である。アメリはここの警備体制がどうなっているかもちろん知らない。でも今まで兵士がこの階まで上がって来たことはなかったし、きっと気づかれないはずだ。じーっと鏡を見つめてみる。
その時、まるで彼女が覗き込んだことを察知したかのように人影が映る。アメリは思わず反射的に身を引いた。
「取って喰いはしないさ」
「こんばんは聖女様」
先ほどは見る余裕がなかったが、肩をすくめるその男は上から下まで黒で統一した簡素な剣士のような服を着ている。しかも宿の一室のような質素な寝台に座っているのだ。
「こんばんは魔物様」
アメリが返すと彼は面白いとばかりに口元を歪める。これは笑いを堪えている顔だ。
「その呼び方はあんまり好きじゃないな。私はレオニダス。レオと呼べばいい」
「私はアメリ。そちらこそ聖女様って呼ばないで。その呼び方は好きじゃない」
「おや私たちは似た者同士だね」
彼は感心したように言って笑う。
「私に何か御用なの?私は何も知らないわ」
知らず視線が下を向く。
「知ってるさ。君は世界を知る権利がある」
それを——教えてあげようと思ったのさ。
「知りたくはないかい?君がどんなものを守っているか。世界がどんな姿をしているか」
鏡ごしに彼は誘うように腕をのばす。
少し考えてアメリは言った。
「知りたいわ。でもあなたが嘘を言うってことはないの?」
「私はまだあなたを信じられないわ」
これは予想していたようで彼は鷹揚に頷いた。
「誓約をしよう。知らないかな? 魔の物は自らが誓った誓約を決してやぶることはできないのさ。」
「ここに。私、レオニダスはアメリに決して嘘はつかないと誓う」
彼が胸に手を当ていい終わると、真っ赤な光が彼をぐるりと一周して辺りに散った。
アメリはびっくりした。
「なぜわざわざそこまでして下さるの?」
「私はこれでも穏健派の魔王でね。普段は人に紛れて旅をしているが、君の存在は酷く人間として歪められている。」
「さて、今日はここまでだよ。また明日、おやすみアメリ。」
——そう言い残して彼、レオは消えた。
「また、あした」
アメリは震える声でつぶやいた。いつぶりだろう。誰かとそういう当たり前の挨拶を交わしたのは。暖かな気持ちが押し寄せて涙が出そうだった。
寝台に飛び込むと、アメリは久しぶりに穏やかな気持ちで眠りに落ちていった。
——けたたましい鐘の音がする。
飛び起きたアメリは、決められた1日を過ごしながら、レオのことを考えていた。彼は魔王だと言った。神殿では魔王は絶対悪と教えられる。でも絶対的不可侵の存在である、と教えられた聖女が自分みたいないい加減な人間だと、馬鹿馬鹿しくてそんなの頭からは信じられなかった。
最初は一夜だけのつもりだった。しかし、もう1日だけ、もう1日だけ。と思ううちに引き返せなくなっていく。
夜ごと、アメリが全てのつとめを終えるとレオニダスが鏡ごしにやってくるのは当たり前になった。彼は旅をしているというだけあって人間の街についても物知りで、アメリの疑問に次々と答えてくれた。
アメリは嬉しかった。聖女としてこれがいけないことであるというのはわかっていたが、昼間ひとりぼっちで神に祈っていると寂しくてたまらなくて、彼に会うのをやめることができなかった。
「私はとんだ悪女だわ。聖女なのに魔物と仲良くするなんて。」
彼に向かってぼやくと、彼は意外そうに眉を跳ね上げた。
「魔物を絶対悪と教えているのは今はトロンだけだよ。東の国も西の国も魔物は人間とそれなりに仲良くやっているのさ」
「本当?」
「嘘はつかないさ」
アメリは見てみたかった。彼の話を聞きながら心は彼と一緒に旅に出るのだ。
そうしてある夜、彼は言った。
君が守護する街を見せてあげようと。
どんな魔術か、鏡は昼間の町並みを映し出す。楽しそうに行き交う人々、八方に置かれた結晶石、そして王都の門を一歩出ると
「なにこれ……」
そこには荒野が広がっていた。次の村へと視線が流れていく。貧困に喘ぐ人々、土地は痩せ、まさしく神から見放されているかのようだった。
「これがトロンのやり口だ。君は利用されているんだ」
彼は悲しそうに告げる。
「嘘……」
「嘘じゃない」
「民の幸福のためって言ったっ……」
肩が震え嗚咽がもれる。
「こんなの聖女じゃないわ。私は……とんだ悪女じゃないっ」
涙を流す彼女に彼は言った。ずっとトロンの有様を見ていた、と。
「先先代の聖女は役目と引き換えに富を望んだ。先代の聖女は色に溺れた。だが君は——何も望まなかった」
否、望めなかったんだろうな。と続ける。
「子供だった君を神殿は利用した。程のいい生贄として一生を縛り付けられたんだ。私は君が恨み堕ちるだろうと思った。」
だが、君は今も輝いている。
——私が知る限り最も美しい力だ。
「私はね、君を助けたいんだよ。この手を取ってくれるなら、すぐにでも君をさらいに行こう」
それはとても魅力的な誘いだった。
「王都はどうなるの?聖女の結界で守ってるって」
「どうもならないさ。ただ——あるがままに」
自然に戻るだけさと彼は言った。
「あの術式は周辺の土地のエネルギーを吸い取ってもいるんだ。見ただろう? 周りが荒れ果てているのを」
「そう——あるがままに」
「私もなれるかな?」
気がついたらこぼれていた声。
「あるがままに生きられるかな?」
もう遥かかなたに置いて来てしまった、人のあるべき姿を取り戻せるだろうか?
「できるさ。楽しいこと、つらいこと、悲しいこと、すべて私が教えてあげる。」
「魔物に教わるのは嫌かい?」
「ううん、全然」
「レオは一緒にいてくれるの?」
「もちろん。一緒に旅をしよう。君と一緒にいたら見える景色が変わりそうだ。」
塔の中に風が——吹いた。
突風に目を閉じ、開くと長身の影がある。
「レオ……」
「光あるところでは闇はより暗く、闇あるところでは光はよりまばゆく光る。君はもっと輝けるよ。」
「行こうアメリ。君の知らない世界を見せてあげる。」
「うん。」
アメリは笑った。それは魔王が思わず頬を赤く染めるくらい魅力的な笑顔だった。
その日を境に、聖女は忽然と消えた。
守護を失った王都は混乱し、左右の大国に攻め込まれた。聖女の力に頼り切って、居眠りばかりしていた兵は役にたたず、トロンはその国の歴史に幕を下ろした。東と西の大国は協定を結び、荒れ果てていた村々は交易の拠点として活気を取り戻すことになる。
東の大国、イスタリアのギルドに、白と黒の対照的な服を身にまとった二人組が訪れた。
「兄ちゃんたちお疲れっ。治癒士見習いの嬢ちゃんもっ」
髭面のギルドマスターが、豪快に声をかける。
「いやあん時はびっくりしたよ。ずっとソロだった兄ちゃんがいきなり彼女つれて戻ってくるんだから」
付き合ってるんだろ?からかいまじりに言われた言葉にアメリは真っ赤になる。
「いいだろ。マスター。うらやましいだろー?」
調子に乗って抱きついてくるレオをパシパシ叩きながらアメリも笑う。
当たり前になった日常がどれほど尊いか彼も彼女も知っている。
国を滅ぼした聖女はもうまごうことなき悪女になった。
でも今、アメリは幸せだ!