『私貴女の事が
月光が落ちるテラス。
春の冷たい風に身を晒したエリアノールは、その寒さを気にすることは無かった。
鉛色の心に、しかし体は烈火のように熱い。腹の腑に疼く鈍痛の様な悲壮感と、清水の様なさっぱりとした覚悟が彼女の全身を駆け巡っていく。
兄の覚悟。
寄り添うセレティナ。
王子と姫。
兄は決意を胸に、セレティナと違う道を歩み出した。
いつかその道が、再び彼女の道と混じり重なる事を信じて。
疎外感を感じなかったわけではない。
セレティナに語る兄に嫉妬をしなかったわけでも。
だが、セレティナとウェリアスを見ていたエリアノールにはすとんと納得できるものがあった。それと同時に、ある事も決めたのだ。
だからこそ、あの場には居られなかった。
エリアノールはゆっくりと瞼を閉じた。
……セレティナの出立は明日。
再び開いたエリアノールの翡翠の瞳には、覚悟の光が鈍く瞬いている。
*
出立当日。
空は快晴。
エルイットは最後の荷物を馬車の荷台に押し込むと、漸く息を吐いた。
それを忌々しげにケッパーの目が睨む。
「いいよなぁお前はセレティナ様についていけてよう」
「ふふん。いいでしょう。セレティナ様はこの私に任せて貴方はどうぞ休暇をお楽しみなさいな」
くふ、とエルイットが笑いを含むとケッパーは盛大に舌を打った。
セレティナは使節団の付き添いとして帝国へ向かう運びとなったのだが、従者を一人だけ付けられる事になった。
ケッパーはそれを聞き、喜び勇んでセレティナに是非私をと頼んだのだがその願いは取り下げられてしまった。
何故なら。
「チビメイド。セレティナ様に変な虫がくっつかないように見張っとけよ。本当にこれだけは頼んだぞ」
「ええ、お任せを。このエルイットの目が黒い内はそんな事はさせません」
「寝込みには気をつけろよ。あと酒もできるだけセレティナ様には飲ませるな。しっかりと施錠しろ。それからなぁ」
「もう分かりましたってば。さっきからずーっと同じ事ばかり言ってるの気づいてないんですか」
「だってなぁ、だってよぉ。使節団とやらには野郎しかいないって言うじゃないか。俺はもう心配で心配で」
「いつまでも爺臭いこと言ってるとあっという間に老けてしまいますよ」
セレティナだけでは紅一点で何かと不便であろうという事でエルイットが侍女として付き添う事になった。
これには流石にケッパーも引かざるを得ない。しかしその想いをエルイットに託さんと、ずぅっとエルイットの尻を突っつき回っているのだ。
しかしやんややんやと二人はいつもこの調子だ。
意外と仲が良いのかもしれない。
「それよりセレティナ様は何処に?もう出発の時刻が迫ってるのですが……」
「お礼を言いにエリアノール様を探し回っていたぞ。あの姫様、何処ほっつき歩いてるんだか」
時刻は差し迫っている。
セレティナは懐中時計を垣間見ると、雑にポケットの中に仕舞い込んだ。
何処だ。
何処におられる。
セレティナは、黄金の髪を風に揺蕩わせながら廊下を足早に抜けていく。
昨日庭園にて急に姿を消したエリアノールを、セレティナは特に思うところが無かった。
何か急用でも思い出して何処かに行かれたのだろう、と。
しかし今日。
出発の日になってもエリアノールはセレティナの前に姿を現さない。
いつもセレティナの事を気にかけ、憂い、慈しんだ彼女が姿を現さない。
いつもの庭園にも、城間の広場にもいない。
エリアノールの自室を訪ねてみたが、居なかった。
寂しいではないか。
セレティナの表情がぐ、と歪んだ。
エリアノールはいつも自分の事を気にかけ、励ましてくれた。
倒れている間もずっと看ていてくれていたという。
感謝を。
お礼を言いたい。
セレティナはその一心で城内を駆け回った。
体は火照り、僅かに汗ばんできており、エルイットに梳かしてもらった髪も今は少し崩れてしまっている。
何処だ。
何処に。
---……居た。
その銀色の流れる様な髪を湛えた背中を見つけ、セレティナは安堵の息を吐いた。
庭園を遠くに望める小さなバルコニー。
その手摺に手を預け、彼女は物憂げに城下を眺めていた。
「エリアノール様!」
セレティナの、鈴の様な声が廊下にシンと響き渡った。
それを受け、エリアノールはゆっくりと振り返り……
なんだ?
セレティナの脳に、僅かな疑問が沈殿した。
エリアノールの纏う雰囲気が、いつものそれとは違う、様な気がする。
太陽の様な彼女は、まるで凍った鋼鉄の様な瞳でセレティナを捉えている。
セレティナは小さく身を固めると、しかしエリアノールの元に駆け寄った。
「エリアノール様。おはようございます」
「ああ、まだいたんですの貴女」
「えっ……あ、ええ。そうですね。まだ出立まで十分程はあるので、エリアノール様にご挨拶にと思いまして……」
「いらないわ、そんなもの。早々にどこへなりとも行きなさい」
「え……?」
それは、凡そ突き放す様な声音だった。
ぐにゃりとセレティナの視界が明確に歪んでいく。
そうして心に僅かな空白と、ずしりと鈍い痛み去来する。
どうしたのですか、エリアノール様。
セレティナの胸が、息苦しさを覚え始めた。
「……エリアノール様……今日はどうされたのですか。何か私が気分を害する様なことでもしましたでしょうか……」
まるで捨て犬の様に縋る気持ちだった。
自分がなにかをしたのだろうか。
エリアノールの明確な敵意に、セレティナは戸惑いを隠せない。
エリアノールは厳しい瞳をセレティナに向けると、粘っこい溜息を一つ吐いた。
セレティナはその態度にじんわりと嫌な汗がにじみ出た。
「気分を害する事?初めから気分を害されてばかりでしたわ貴女には。『春』では折角第一王女の私が主役になるはずでしたのに貴女が衆目を攫って、私がどんな気持ちでいたのか分かってますの?」
「え…………」
「優しい王女は演じきれていたかしら。あの事件で少し腕が立つものだから少し優しくしてあげてただけ。でも貴女体力が全然無いんですもの。騎士になれたところで大して頼りにもならなそうだと思って、もう皮を被るのはやめました」
セレティナの、信じられないという様な瞳。彼女の表情は、エリアノールに対する罪悪感と失意に歪んでいた。
それを受け、エリアノールは僅かにたじろぎそうになって、しかし下唇を忌々しく噛んだ。
「居なくなって清々したと思ったらまたその顔を見る羽目になるんですもの。良いでしょう。私の本音を貴女にぶつけます」
エリアノールの凍てつく眼光が怯えるセレティナに突き刺さる。
エリアノールは忌々しげに呪詛を紡いでいく。
『春』で恥をかかされたこと。
自分を慕っていた紳士達が皆セレティナに傾いだこと。
打算で優しくしていたこと。
王子に媚を売る様な行動を鬱陶しく思っていたこと。
それを受ける度、セレティナの精神ががりがりと削り取られていく。
表情が翳り、どんどんと俯いていく。
はっきり言わせてもらいますわ。
そう言って、エリアノールはセレティナを今一度睨み据える。
黄金と、白銀。
群青と、翡翠の瞳が交差して。
「私、貴女の事が---」
春の風が、一陣吹き抜けた。




