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親というもの

 


 オルトゥスには親がいなかった。

 物心がついた頃には街の隅にあるゴミの掃き溜めの様な所にいて、一日中働いても雀の涙程の賃金も貰えない過酷な労働に身を窶しながらたった一人で生き永らえていた。


 物乞いをし、泥に濁った雨水を啜りながらその日を食いつなぐ卑しい日々だった。


 しかしオルトゥスはそこに一欠片ほどの疑問も抱く事は無い。

 それが彼の日常で、彼にとっての世界だったから。


 孤児院の存在を知ったのは彼がある程度を理解できる年頃になった頃だ。いくらかの奉仕活動を行えばパンと暖かなスープが与えられ、屋根の下で雨風に晒される事無く寝る事ができる……彼はそこを夢のような場所だと思った。


 幼いオルトゥスは喜び勇んで孤児院に飛び込んだ。院長は歓迎こそしなかったが、彼を孤児院の一員として迎え入れた。


 オルトゥスは目の前に置かれた孤児院の食事にそれは大層喜んだ。


 中流以上の家庭から見れば余りにも粗末な食事なのだが、まともな食事なんて何かの記念になる様な日以外に口にできなかった。

 神という存在は信じていなかったが、彼は初めて神に感謝の祈りを捧げた。


 ……しかし、彼はそれを口にする事が出来なかった。


 孤児院の年長者の少年が彼の食事を取り上げたのだ。


 その少年曰く、新参者はまず年長者に与えられた食事を献上するというのが孤児院の習わしらしい。


 そう、孤児院には既に排他的なコミュニティが形成されていた。古参組が新参者を食い物にし、自尊心と空腹を満たしている。


 オルトゥスにとって豪勢な食事でも、それでも食べ盛りの少年少女達の腹を満たせる程の食事は与えられない。


 孤児達は少しでも私腹を肥やそうと悪知恵を働かせた。それが、仮に残酷な手段であろうとも。


 院長は見て見ぬ振りだった。

 卑しい子供の諍いなどどうとでもしてくれ、そう言った風の冷ややかな目でその場を去ったのだ。


 オルトゥスはこの時産まれて初めて怒りを覚えた。


 拳を振るったのも初めてだ。

 オルトゥスは少年を殴りつけるとパンを奪い返し、孤児院を脱兎の如く飛び出した。


 行くあては無かった。


 初めての感情に突き動かされ、とにかく走りたかったのだ。


 走って、走って、走って--。







 三十分も走ったところで、ようやくオルトゥスの足が止まった。

 汗だくになり、膝に手をつきながらも彼は決してパンを手放さない。


 ようやく一息がついて周りを見渡すと、そこはオルトゥスにとって見慣れない場所だった。


 長らく走った。


 彼の行動範囲外の場所だった。


 そこは俗に言う上流家庭の住宅街の様な区画だったのだが、掃き溜めに住んできたオルトゥスにとってそこは小綺麗過ぎた。


 …オルトゥスは見窄らしい自分が急に恥ずかしくなった。煌びやかな街に、自分の様な小汚い物乞いが余りにも浮いた存在に思えたのだ。


 ……帰ろう、あの掃き溜めに。


 そうして踵を返した時、オルトゥスの目に丁度それは飛び込んできた。





 女の子だ。


 自分と然程年も変わらない身なりの良い女の子が、父親と母親に両の手を繋がれて楽しそうに笑っていた。

 父親と母親の表情には暖かな慈愛が満ち、自分達の手を引く娘を優しげに見つめている。


 幸福だ。


 幼いオルトゥスは、漠然とだがそう思った。


 あれこそが、幸福なんだ。


 女の子は何か取り留めのない事を楽しげに喋っていた。父親と母親は朗らかに笑いながらそれを聞いている。


 オルトゥスは、いつの間にか大粒の涙を流していた。

 この時初めて気付いてしまった。

 自分が如何に不幸な存在であるか。

 自分が如何に卑しい存在であるか。


 オルトゥスは嗚咽を漏らしながらその場に崩れ落ちた。涙が、止まらなかった。


 親に捨てられた事。

 親に愛されない事。


 今まで常識として認識していたそれは、いかな飢えにも勝る強烈な事実としてオルトゥスの心に渦を巻いた。


 目の前の光景は、自分が最も欲していたものだったのだと疑わなかった。


 この時、オルトゥスは産まれて初めて泣いた。ただひたすらに、泣いた。


 オルトゥスは泣きながら埃に塗れたパンを食べた。固く、不味かった。


 オルトゥスはこの時食べたパンの味を、今でも鮮明に覚えている。



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