涙のエリアノール
*
胸の奥がきゅうきゅうと収縮する。
切なくて、しかし心地良い。
それはきっと、エリアノールにとって本当の意味での初恋だった。
セレティナを想う。
それだけでエリアノールの瞳の奥で火花が弾けて、ぼうと頬が上気してしまう。
胸が締め付けられ、さりとてその切なさに身を委ねたくなるのだ。
セレティナと過ごすこの数日間。
それは彼女にとって綿飴より甘く、至福の時間だった。
きっと、私とセレティナは赤い糸で結ばれている。
だって、姫様を救ってくれた騎士様なんですもの。
私達はきっと、幼い頃何度も読み返した絵本の中の主人公なんだ。
エリアノールは思いがけず笑みが零れた。
エリアノールは庭園において、器用な手つきで花の冠を編んでいた。
セレティナの黄金の髪には、きっとクローバーの白い花が似合うだろう。
そんな事を想像しながらエリアノールの細い白指が丁寧に冠を編み上げていく。
それは彼女にとって、数少ない特技の一つであった。
「ご機嫌だな」
聞き慣れた声。
エリアノールは陽気なハミングを止めると、声の方向に従ってゆっくりと顔を上げた。
年頃にしては精悍な顔。
切れ長の目は、どこか野性味を帯びている。
この国の第一王子にして、エリアノールの兄ディオス。
彼は大きな欠伸をすると、エリアノールの手元を覗き込んだ。
「器用なもんだな」
「でしょう?ディオスお兄様もおひとついかが?」
「よせ。俺はそういう可愛い趣味は持っていない」
ぶっきらぼうに返すディオスに対し、エリアノールは楚々として笑った。
「セレティナにプレゼントか?」
「ええ。よく分かりましたわねお兄様」
「いや……お前達ここ最近仲良くやってるだろ。だからなんとなくな」
「ふふ。力技ばかりのお兄様のご推察もたまには当たるものなんですのね」
「俺はこれでも地頭はいいんだぞ。ウェリアスが横にいるせいで馬鹿に見えるが」
……出来た。
エリアノールは白の花冠を編み上げると、自然と笑みが零れた。
浮かぶのは、これを受け取ったセレティナの笑顔。
エリアノールの胸がまた一つ、きゅうと収縮した。
「なあエリアノール、決まったか?」
突然な質問だった。
兄が何を指してそれを聞いているのか、エリアノールには分からない。
エリアノールは花の冠が形を崩さぬ様にそっと膝に置くと、目を丸くしてディオスに問いかけた。
「決まった?何がですの?」
「……『春』。こんなになっちまったが目的はあっただろ?俺達」
「はぁ……」
エリアノールは呆けたような生返事を返した。
何も分かってないという風な妹のその態度に、ディオスはマジかと小声で呟いた。
「おいおい、お前が一番張り切ってたじゃねぇかよ」
「えと、なんでしたっけ」
「……嫁探し。お前で言うところの婿探しだな」
「あっ」
「……本気で忘れてたのか。前日にはわたしの王子様を探しますわー、とか言って俄然張り切ってたくせに」
そう言えばそんな事を言っていたような。
エリアノールはすっかり忘れていた。
「まああれだけの事件があったから忘れていたのは仕方ないけどよ。俺達は王の血を引く人間だ。後世にこの血を残す義務と責任がある。嫁婿探しも、立派な仕事だ」
「お兄様がマトモな事を言ってる」
「お前の目には俺が猿かニワトリにでも見えてんのか」
ハハハ。
エリアノールは、乾いた笑いを必死で演出した。
婿探し。
王の血を残す努力。
それが王女に与えられた、最上の使命。
「…………」
エリアノールの心に、じっとりとした灰色の影が差し掛かった。
脳裏に描かれるのは、やはりセレティナの笑顔。
僅かに手が汗ばみ、粘質な唾液が口内を侵し始めていく。
膝に置いた花冠を掴むエリアノールの手が少し力んだ。
「……ん?おい大丈夫か。少し顔色が悪いぞ」
「え、ええ、大丈夫ですわ。元気が私の取り柄ですもの」
「そうか。気分が悪くなったらいつでも診てもらえよ」
「……そ、それより。ディオスお兄様は……ディオスお兄様はお嫁さん候補は見つけられたのですか?」
「ん。ああ……まあな」
ディオスはそう言って、少し照れ臭そうに頬を掻いた。
エリアノールの胸が、ずきりと痛む。
次の質問の答えを予感したエリアノールは、懸命に笑顔を取り繕った。
「そのお相手の名前を聞いてもよろしいですか?」
「……セレティナだ」
エリアノールの心臓に、鋭利な棘が一本突き刺さった。
ぎゅっと力の込められた彼女の手が、僅かに花冠を握り潰した。
「セレティナさん……そ、そうですよね!セレティナさん、は……とても綺麗でそれ、に……教養もあって……」
「ああ、セレティナは素晴らしい女性だ。だがどうもウェリアスも彼女に気があるらしいからなぁ。兄として弟に負けるつもりはないが……今度彼女を食事にでも誘うかな」
「あ、はは」
「なあエリアノール、お前セレティナと仲が良いだろう。何か食事の好みとかあれば教えて貰いたいんだが」
「………りま……わ……」
俯いたエリアノールの声はか細く、消え入るようだった。
ディオスから見てエリアノールの表情は、見えない。
「おい、なんだって?そんなに俯いてたら声が」
「だから!!知りませんわ!!そんな事!!」
ディオスは、驚いた。
それは、エリアノールが急に立ち上がったこと。
声を荒げたこと。
花冠が力一杯くしゃくしゃに握られていたこと。
彼女の肩が震えていたこと。
そして何より、彼女の頬を大粒の涙がいくつも流れていたこと。
ディオスは、急激な妹の変化に思わず言葉を失った。
頭が混乱し、喉が干上がった。
何が妹を傷つけた。
何が妹を悲しませた。
ディオスは、何も分からない。
エリアノールは、戸惑う兄に背を向け駆け出した。
大粒の涙を拭うことなく。
ディオスは、悲壮に満ちたエリアノールの背にかける言葉が出てこない。
駆けていく妹の背はいつもより小さく、まるで触れれば壊れてしまいそうな危うささえ感じてしまった。




