失う恐怖
窓から柔らかな木漏れ日が差している。
小さな腰掛けが一つ。
一人用の清潔なベッドのサイドテーブルには色とりどりの花々が花瓶に差され、部屋全体が華やかな香りに包まれている。
ベッドの上で本を読み耽っていたメリアは、セレティナとイェーニスの存在に気がつくとその表情がパッと華やいだ。
「セレティナ!目が覚めたのね!」
「ええ。お母様もお元気そうで……いえ、とにかく生きておられて本当にホッとしました」
セレティナの表情が和らいだ。
メリアは全身に包帯が巻かれて足も吊るされ、凡そ健康とは遠い状態にあるのだが……しかし、それでも生きる彼女の表情には生気が満ち満ちている。
イェーニスはセレティナを腰掛けに丁寧に下ろすと、ふうと息を吐いた。
「全く母上といいセレティナといいアルデライト家の女性は本当に逞しくて嫌になっちまいますよ」
「あらそれは褒め言葉として受け取っても良いのかしらイェーニス」
不敵に笑うメリアに、イェーニスの背筋がピンと伸びた。
メリアは本を置いて
「セレティナ」
「お母様」
腕を広げる。
そこにすっぽりと収まるように、セレティナの体を包み込んだ。
セレティナもそれに応えるように、母の背に腕を回してぎゅっと抱き締めた。
……僅かな時間。
母と娘はお互いの体温、心臓の鼓動を確かめ合うように抱き合った。
二人は抱き合ったまま
「お母様、もう自分の命を抛つ様な事はしないでください……」
「ふふ。それを貴女が言うの?セレティナ」
「……そうでしたね。すみません」
セレティナは自嘲気味に笑った。
そうだ、私も、私だけの体では無いんだ、と。
「……でも、そうね。私には自分の命を抛つだけの力はもう無いの。だからもうそんな真似は出来ないわ」
「え?」
セレティナは、その言葉の意味が分からない。
メリアはそんな娘を見て笑っていた。
悪戯が暴かれて、バツが悪そうに笑う童女の様に。
「それって……」
「うん、もう剣は持てない。強化・魔法薬の影響でね、これで結構私の体ぐちゃぐちゃなの。ふふ、侍女長の悩みが一つ減ったわね。あの人私の傭兵時代を知らないからたまに私が剣を持つとすっごい心配するんですもの」
セレティナの頭に、ぽっかりと風穴が出来たようだった。
セレティナは、何も言えない。
何も言葉が浮かんでこない。
自分を守ろうとする為に母は剣を……いや、健康な肉体を失ってしまった。
がつんと殴られた様な衝撃と、仄暗い洞窟の様な後ろめたさがセレティナの胸中に渦を巻いた。
そんなセレティナの頭を、メリアは優しく撫ぜた。
白魚の様な細指が、黄金の髪の間を掬って流れていく。
セレティナを見るメリアの瞳は、どこまでも優しさに満ちていた。
「気にすること無いの。私は、私の為すべき事をやっただけ。貴女が責任を感じる事なんてなに一つ無いのよ」
「…………お母様」
「貴女もいずれ母になる。もしも貴女が母になったとき、きっと子に私と同じ事をするでしょう。母とは、そういうものよ」
「……………お母様……!」
「まあ、格好つけた割には私、全然あの魔物に手足が出なかったのだけどね。私にもう少し、セレティナみたいな剣の才があれば良かったのに」
「…………お母様……っ……!」
「……はいはい、泣かないの。折角の美人が台無しよ。貴女は笑っていた方がずっと似合うんですから、しゃんとしなさい」
セレティナは、泣いた。
母の胸で泣いた。
己の無力さ。
母の優しさ。
力の渇望。
己の認識の甘さ。
騎士の正義が慟哭し、令嬢の脆さが嗚咽する。
そうしてセレティナの群青の瞳から、涙の雫が沁み出でる。
全てを知っているイェーニスは、唇を噛んだ。
メリアは笑って、セレティナの背中をさすり続けた。
「……セレティナ、戦場に出るってね、騎士になるとはこういう事なの。どこの戦さ場に行っても、人は死に、誰かが嘆く。……誰かの為に犠牲になる、とても尊い事だわ。でもね、それは美しいだけ。残されたものの気持ちを背負って、それでも守りたいと思うものを貴女は守りなさい」
娘の成長に繋がったのなら、私が剣を振るえなくなったくらいなんでもないわ。
メリアはそう言って、ぐしゃぐしゃとセレティナの頭を撫でつけた。
……そんな事は、分かっている。
幾つもの戦場と死線を潜り抜けたオルトゥスには、そんな事は分かっているのだ。
しかし。
けれど。
初めて出来た自分の家族。
全てを抛ってでも守りたい存在。
それが自分の掌から零れ落ちていくのは、セレティナには耐え難い事だった。
オルトゥスという男の奥まったところにある弱い心が、セレティナという器によって掬い上げられ浮き彫りにされていく。
しばらくセレティナは母の胸の中で家族を救えなかった無力さと、家族を失いかけた恐怖に、年頃の少女の様に震えていた。




