旧友の存在
*
「薔薇に絡みつく蛇、ね」
ウェリアスはセレティナを抱きかかえたまま、思案に暮れた。
セレティナの美しい頸に当たる部分に、確かにそれは彫り込まれている。
賢明なウェリアスは恐らくそれが『黒白の魔女』によって彫り込まれた物だとは何となく察知したが、それがどのような意味合いを持っているかまでは推察できない。
薔薇は兎も角、蛇に対して良い印象は浮かぶ事はない。
例え良い影響を与えているとしてもこの国を堕とそうとした魔女がセレティナに何かを刻みつけたという事実が、ウェリアスにとって気に食わなかった。
「だからロギンスと仕合などという真似をしていたのですね。……しかし体が軽いとは言え、無茶が過ぎます。少しは自分の体調を慮る事が必要ですよセレティナ」
「……申し訳ありません」
憮然としたセレティナはツンと顔を背けると、僅かに頬を膨らませた。
どうにもウェリアスに抱えられたまま自室に連れていかれてる現状に納得がいかないらしい。
ウェリアスはそんなへそ曲がりの姫の態度に困った様に眉を曲げた。
「ちょっとお兄様!セレティナさんに触れているからと言って鼻を伸ばさないでくださいまし!」
そんな状況に不平不満を未だに吐き続けるのはエリアノールだ。
「エリアノール。それを言うなら鼻の下、ですよ」
「そう!鼻の下を伸ばすのは駄目ですわ!……あっ!あーっ!今お尻を!セレティナさんのお尻を触りましたわ!」
「触るわけがないでしょう!全くどうしたんですか、いつもの貴女より落ち着きが無いですよ!」
「お兄様がセレティナさんを抱っこするなどという羨ま……うぅーっ!セクシュアルハラスメントな事をしているから悪いんですわ!」
エリアノールは思わず白いハンカチを噛みちぎった。
先程から常にこの調子だ。
セレティナを抱くウェリアスの周りをぐるぐると回り、恨み節を延々と吐き続けるのだ。
余りにもそれが酷いものだからセレティナを預けてみれば、最初はふんすふんすと息巻いていたものの直ぐにセレティナの重みに耐え切れずに潰れてしまった。
だからこうしてエリアノールは泣く泣く、渋々セレティナの身を兄に任せたのだ。
恨み言は言い続けるのだが。
ウェリアスはそれよりも、と前置いて話を戻した。
「セレティナの首の紋章はやはり気になります。彼女にいい傾向を齎しているとは言え、あくまでそれはセレティナ自身の推察の域に過ぎない」
「では、どうするんですの?確かめようがありませんわ」
そう言ってエリアノールは肩を竦めた。
しかし何かウェリアスには提案があるのだろう、セレティナは黙ってウェリアスの次の言葉を促した。
「薔薇と蛇。一見僕達素人にとっては何の取り留めの無い組み合わせに見えますが、見るものによってはそれが大きな意味合いを持っているのかもしれませんよ」
「……つまり、魔法士に診せるという事ですか?」
セレティナの言葉にウェリアスは大きく頷いた。
「宮廷魔法士と呼ばれる王国お抱えの魔法士がいます。言わずもがな腕に覚えのある魔法士です。どうですかセレティナ、診てもらいませんか」
ウェリアスの問いにセレティナは僅かに逡巡し、沈黙した。
これは、ディセントラが刻み付けたもの。
セレティナはそれを直感しているからだ。
これが自分にとって良いものなのか、破滅を齎すものなのか、それは定かでは無い。
しかし、それでもこれを人目に見せるのは憚かるものがある。
ディセントラが刻み付けたものであるならば、然るべき魔法士に診てもらいたい。
それがセレティナの願いだった。
セレティナは決断を下すと、ウェリアスを見て首を横に振った。
それは、拒絶の意思の表明。
ウェリアスの瞳が、僅かに見開かれる。
「……何故ですかセレティナ」
「そうですわセレティナさん!そんなものが寝て起きたら刻み込まれているなんて、普通あり得ない事ですわよ!」
「……知り合いに信頼の置ける魔法士がいるんです。その人に診てもらおうかな、と」
セレティナがそう言って困った様に笑うと、二人はほっと息を吐いた。
やはりセレティナの身が心配なのだ。
しかし。
「宮廷魔法士より腕のある魔法士なんているんですのね」
「ええ……まあ」
「そんな魔法士がいるなら会ってみたいものですね。宮廷魔法士にスカウトできたら良いのですが」
「それはどうでしょう……彼女、気難しいですから」
セレティナはそう言って、彼女の姿が頭に過ぎった。
旧友、イミティア・ベルベットの姿を。
彼女は息災だろうか。
世にも珍しい狼種の獣人族の彼女を憂い、セレティナの目が薄く細く形を変えた。
「ではその紋章の事はセレティナ自身に任せるとして、今はやはり休養が必要ですね。気にかける者も多くいます、ほら」
一点を見つめるウェリアスはそう言って、長く続く廊下の先を視線で指し示した。
釣られてセレティナがそちらを向くと、黄金の毬栗……いや、兄のイェーニスがどたどたと駆けてくるところだった。
懐かしい。
じわりとセレティナの胸の奥に熱い何かが込み上げてくる。
ずっと寝ていたというのに家族の顔が酷く懐かしく感じられる。
死線を乗り越えたからか、今はただただ家族の姿が愛おしくて堪らなかった。
ああ、そうだ。
こういう時に実感するんだ。
セレティナは嬉しくなった。
私はオルトゥスでありオルトゥスでは無い。
セレティナというひとりの人間としてアルデライト家の家族の一員なんだ、と。
セレティナはそれが堪らなく嬉しい。
「セレティナ!」
「お兄様!」
駆け寄ったイェーニスは、珠のような汗を流していた。
ぜいぜいと息を切らし、彼は思いがけず膝に手を突いた。
「おまっ……ハァッ……起き抜けにベッドにいないンッから……ハァ……ハァッ……心配したんだぞ!」
「それは……申し訳ありません……」
「父上は領地に戻ってしまわれたが……ハァ……母上はまだ別棟にいる……!起きたなら先に……言えよな……!」
王子にお姫様抱っこなんてされてよ、とイェーニスは汗を拭うと、しかしいい笑顔を見せた。
ふぅ、と息を吐いて襟を正すと
「とりあえず元気そうで良かった。……ウェリアス王子殿下、エリアノール姫、セレティナがご迷惑をお掛けしたみたいで申し訳ありませんでした」
イェーニスは品良く腰を折った。
やはり公爵家の子息ということもあり、様になっている。
「迷惑だなんてとんでもない。寧ろ僕が彼女の機嫌を損ねたみたいですからね」
「セレティナが王子の機嫌を……っ!大変申し訳ありません!」
「いやいやそう言うつもりで言ったわけでは無いですから謝らなくとも」
「そうですわ。ウェリアスお兄様はセレティナさんのお尻を触ったのですからお尻を」
「エリアノール、余計な事を言うと話が拗れるだけですからやめてください」
ぽかんとしているイェーニスにウェリアスは何でもないんです、と微笑むと腕に抱えたセレティナをイェーニスの背に預けた。
「どうやらこの姫は僕が抱えていると嫌な様なのでね。兄の貴方が連れて行ってやってください」
「はぁ……」
「では頼みましたよ。セレティナ、また元気になった時に会いましょう」
微笑むウェリアスに、セレティナはこくりと頷いた。
どうもお姫様抱っこ事件で彼女の中に小さな苦手意識が産まれたらしい。
なんとなく、ウェリアスに対するセレティナの態度は余所行きの猫のようなものが感じられる。
「セレティナさん、元気になった時は一緒に庭園でお散歩でもしましょうね。その時は今度は二人で、なんて。ぽっ」
頬に手を当て、身を攀じるエリアノールにセレティナは笑顔で頷いた。
自分が寝ている時になんだかんだと世話を焼いてくれたのは何と言っても姫なのだ。
その恩義に報いたい気持ちがセレティナの中で燻っている。
「それでは王子、姫。俺達はそろそろ行きますね。母上にこいつの顔を見せに行かなきゃですので……」
「エリアノール様。ウェリアス様。本当にお世話になりました。体調が戻りましたらまた伺いますね」
「ええ。しっかり療養してください」
「お気をつけて。イェーニスさん、セレティナさんを宜しくお願いしますね」
エリアノールの言葉に、イェーニスは力強く頷いた。
「お任せください。それでは失礼します」
イェーニスはセレティナを背負ったままぺこりと頭を下げると、踵を返して来た道をそのまま引き返していった。
セレティナに響かぬよう慎重に、慎重に歩みを進めながら。




