閑話・黒白の魔女
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「ディセントラ!ディセントラはいるかい!」
立ち眩む様な広大な洋館。
目も眩む様な黄金の内装。
切り立つ崖の上に孤狼の様に聳えるその洋館はひたすらに広く、ひたすらに絢爛。
尖った屋根は鉛色の空を穿ち、武骨な石壁で出来た外装は要塞……いや、大監獄を想起させるだろうか。
館の長い廊下の壁にはずらりと裸夫の絵画が並んでいた。
幼い子供から老人のものまで、その全てが裸を晒した男が描かれている絵画が視界一杯に広がっているのだ。
男、男、男。
エロティシズムに溢れた裸夫の絵画はよくよくと目を凝らせば石床や天井までにも直接描かれている。
『黒白の魔女』……ディセントラは洋館中に響き渡るしゃがれた女の叫びに辟易した様に一つ溜息を吐くと、虚空に向かって指で何かを描いた。
彼女の美しい人差し指の軌道に従って、虚空に光の魔法陣が描かれていく。
やがて描き終わり、ディセントラは虚空に浮かぶ魔法陣に向かって何事かを囁いた。
そして柏手を一つ打ち鳴らす。
魔法陣が光の粒子となって瞬いたその瞬間、ディセントラの視界が暗転した。
幾許かの時を置いて、彼女は閉じた瞼をゆっくりと開いた。
廊下からとある部屋の前へ。
巨人でも住んでいそうな巨大な観音扉が目の前に広がっている。
その扉の奥からはディセントラ、ディセントラ、と彼女を呼ぶ女の声がくぐもって聞こえてくる。
ディセントラは転移できた事を確認すると、ポールガウンドレスの裾を払って居住まいを正した。
「ママ。ディセントラはここにいるわ」
凡そ呟く様な声。
感情すら篭っていないカラクリ人形の様なその声が、扉に向かって小さく響いた。
その声が聞こえているのだろう、ディセントラを呼ぶ女の声は嘘の様に静寂の中へ落ちていった。
「ディセントラ。お入り」
老婆とも、少女ともつかない底知れぬ女の声。
その声が直接ディセントラの脳を刺すと、彼女を招き入れる様に巨大な観音扉がぎしぎしと悲鳴をあげながらひとりでに開きだした。
ディセントラの瞳が僅かに揺れる。
彼女は僅かに逡巡した様に躊躇ったが、黒のハイヒールを暖かな絨毯のその部屋に一歩、また一歩と踏み出した。
一歩、また一歩とディセントラは暗く長い通路を歩んでいく。
歩いて、歩いて、部屋の奥に踏み入る程にその臭いが濃くなっていく。
男と女の行為の臭いだ。
生々しく、淫猥なその臭いにディセントラは思わず顔を顰めた。
……三分程は歩いただろうか。
ディセントラの目の前に巨大なベッドが現れた。
天蓋付きの、されど象でも寝れそうな程には巨大なベッドだ。
「ママ。私はここにいるわ」
ディセントラはこんもりと山を形成したベッドに向かって語りかけた。
彼女が山に語りかけると、やがてシーツと毛布で形成されたそれは山崩れを起こし
「やあディセントラ。よくきたね」
でっぷりと肥え太った裸の女が姿を現した。
ディセントラと同じ漆黒の髪は艶良く腰程までにたなびいており、卵の様な艶肌は僅かに汗ばんでいる。
肥え太ってはいるが、それでも尚噎せ返るような色気を醸し出し、美しいとすら思わせる不思議な女性だ。
やはり彼女を形容するのであれば、魔女なのであろう。
魔女は太い指で前髪を託しあげるとふうと息を吐き、ベッドの両隣に寝ている年端もいかぬ少年の頭を愛おしく撫ぜた。
「あたしが何で呼び出したか、分かっているね?」
魔女は問う。
返すディセントラの答えは……沈黙であった。
魔女はそんな彼女を見るにつけ、さも面白くなさそうに口角を下げた。
真っ赤なルージュが形を変え、室内灯の明かりを淫靡に照り返した。
「渡したな」
「…………」
「渡したなッ!!!」
魔女が、叫ぶ。
すると、洋館全体が揺れた。
比喩ではない。
魔女の発声する音波が、衝撃波を伴って空間全体を叩いたのだ。
部屋全体を囲う石壁は捲り上がり、ガラス窓は粉々に砕け散った。
魔女は怒っている。
ディセントラの紅色の瞳が、畏怖によって揺れた。
魔女はベッドを踏み砕いて立ち上がると、ディセントラの目前に立ち塞がった。
目測でも三メートル程の背丈はあるだろうか。
まるで覆い被さる様だ。
魔女はディセントラを射殺す眼差しで睨み据えた。
「何故、渡した?」
「……………」
「恩知らずの、親不孝者めええええええええ!!」
魔女が絶叫した瞬間。
ディセントラの体を不可視の力が這い回った。
ぞぞぞ、と背筋に寒気が走った。
「うっ……!」
ぐん!
まるで乱暴に胸倉を掴まれた様に、ディセントラの体が浮いて
彼女の体が床に叩きつけられた。
頭蓋骨と石床がぶつかり合う低く、鈍い音が部屋に轟いた。
ぱっくりと割れた頭の肉から、赤い血が噴き出した。
強烈な痛みが、遅れてディセントラに去来する。
しかしそれで終わりではない。
ディセントラの体が再び見えない巨人によって担がれると、今度は天井に下げられたシャンデリアの中に吹き飛ばされる。
金細工が飛び散り、彼女の柔らかな肉がぐじゅりと水気を帯びた音をたてた。
それからは、まるでピンボールだ。
部屋のありとあらゆる場所に強引に、横暴に、ディセントラの体が叩きつけられていく。
魔女はその様子を苛々と眺めながら、咥えた煙管に火を付けた。
「こそこそこそこそと下界に下りては勝手を繰り返し。拾ってやった恩義を忘れたのかねぇこのクソ餓鬼は」
魔女はほうと煙を噴き出すと、側で震えている少年を強引に搔き抱いた。
そうしてぱち、と一つ指を鳴らすのだ。
そうするとディセントラを包んでいた不可視の力は忽然と消え失せ、放り出された彼女の体は慣性の法則を保ったまま衣装ダンスにその身を激突させた。
ぱらぱらと木片が飛び、中から色鮮やかな布が飛び出した。
血濡れたディセントラの腕が、瓦礫と化した衣装ダンスの隙間から力無く垂れている。
魔女はさも面白くなさそうに、煙管から煙を吸い込んだ。
「……いいかい。次おいたをすれば本当に殺すからね。これ以上あたしを不快にはさせないどくれ」
魔女はそう言って太い指でぱちんと指を鳴らした。
そうすると、ふ、とディセントラの体が粒子となって部屋から消え失せた。
魔女の瞳は、どこまでも仄暗い殺気に満ち満ちている。
気づけば、ディセントラは部屋の前の廊下に投げ出されていた。
血溜まりを作り赤色の池に身を沈める彼女はぼんやりと天井に、何かを求める様に手を伸ばした。
その手には大きな木片がざっくりと突き刺さっている。
痛いはずだ。
苦しいはずだ。
……しかしディセントラは、にっこりと笑っている。
「……私はちっとも痛くない。苦しくないわ。だって私には貴方がいるもの」
ねぇ、オルトゥス。
『黒白の魔女』の声に、応えるものは誰もいない。
されどディセントラの瞳にはまるで愛しい君が目の前にでもいるかの様に情欲に潤み、彼女の笑みは揺るぐことが無かった。




