眠れる姫には
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王城、客間の一室。
ふかふかの絨毯に、見事な調度品の数々、そして意匠を凝らしたガラス窓。
客間と言えど、その一室は王都最高級の宿屋のそれと何ら遜色は無い。
窓辺には王城が誇る庭園の花が咲き乱れ、階上のここまで香りが華やぐ様。
暖炉には常に侍女のエルイットの手によって薪が焼べられ、まだ春先の冷えこみが続く外と違い、室内はとても暖かだ。
ともすれば小さな運動会でも開けそうなこの空間には、ベッドが一台誂えられている。
大の大人が五人は同時に寝られそうな、巨大で華美なベッドだ。
こんもりと小さな山を形成した羽毛布団は静かに、しかし小さく上下している。
眠り姫は、今日も今日とて眠っている。
日数にして三日。
セレティナはもう三日程も眠り続けていた。
エリアノールはベッドの横に椅子を誂え、そんなセレティナの頬をぷにぷにと突いていた。
「……起きませんわね」
「……はい。お医者様が仰るには体は健康そのもの、らしいのですが」
「健康なわけありませんわ。だってあんな死に体に魔法薬を流し込んで無理矢理剣を握っていたのですもの」
「……そうですよね……。うぅ……お嬢様……」
ずび、とエルイットの鼻が鳴った。
涙ぐむ彼女の姿に、エリアノールの目尻が僅かに下がる。
「……貴女も働き詰めなのでしょう。少し別室で休む方が良いですわ。セレティナさんの様子なら私が見ておきますから」
「ですがエリアノール様に侍女の仕事を任せるなど……!そうでなくともこの三日間ずっとセレティナ様に付きっ切りでいらしたのに……!」
「ええい、そんな事言ってたら埒があきませんわ!セレティナさんが元気になった時に貴女が倒れてたらどうするのですか!」
「いえしかし……」
「しかしもお菓子もありませんわ!」
さぁお休みなさい!
半ば捲し立てられる様にエルイットは部屋の外へ追いやられた。
この三日、エルイットは一睡もできていない。
それに、側から見てもどう考えたって彼女は働き過ぎだ。
どんどん!と扉を叩く音は……聞こえない。
セレティナの体に障ると思ったからだろう。
しかしエルイットは控えめに扉をコツコツと叩いてエリアノールに入室を求めた。
しかしそれをエリアノールは認めない。
心を鬼にして扉の錠を閉じた。
むん、と腕を組んで耳を閉じる彼女の意思はオリハルコンよりも固い。
……やがてエルイットの主張は鳴りを潜め、
「……一時間程で戻ってきますね」
ぼそりと呟いた。
「四時間ですわ」
「……二時間」
「五時間に増やしますわよ」
「……うぅ……はい……」
「しっかり眠ってらっしゃい」
エルイットが扉にぺこりとお辞儀をし、遠ざかっていく。
そんな気配を感じ取り、エリアノールは僅かに微笑んだ。
「……セレティナさんは侍女にも愛されておりますのね」
そう言って、エリアノールは再びベッド脇の椅子に腰掛けた。
かち、こち、かち、こち。
静謐なその部屋には、硬く軽快な壁掛け時計の音のみが充満している。
かち、こち、かち、こち。
エリアノールは、眠るセレティナの顔を覗き見た。
すぅ、すぅ、と小さな寝息をたてて眠るセレティナがまるで天使の様にさえ思えてしまう。
ツンと天に伸びた睫毛。
スラリと通った形の良い鼻筋。
ぷるんと艶のある桜色の唇。
見れば見る程、美しい。
エリアノールは、そんな彼女の寝顔を時間も忘れて見惚れしまっていた。
かち、こち、かち、こち。
セレティナはこのまま、眠り続けてしまうのだろうか。
エリアノールはそれが不安で堪らない。
このまま昏睡したままとあっては栄養が足りずに衰弱死してしまう可能性もある。
セレティナの寝顔を見るエリアノールの胸が、きゅっと締まった。
なんとか、してあげたい。
エリアノールはそう思って、
……思い至ってしまった。
それは神の啓示か、それとも悪魔の囁きか。
その瞬間、エリアノールの顔面が真っ赤に茹で上がった。
ドクドクと、胸で脈を打つ心臓が一段階も二段階もギアが上がったのが彼女自身が何よりも分かってしまう。
かち、こち、かち、こち。
エリアノールの翡翠の視線はまるで吸い込まれる様に、セレティナの唇へと注がれてしまう。
思い出したのだ。
子供の頃に読み漁っていた絵本の中に、眠れる姫を目覚めさせる方法があったのを。
それは、キス。
目覚められぬ呪いを掛けられた姫の呪いを解く方法は唯一つと相場は決まっている。
脳内お花畑のエリアノールが何故それに気づかなかったのかは、彼女自身驚きだった。
……もし。
もしもの話だ。
セレティナが絵本に出てくる様なそう言った呪いを掛けられているのだとしたら?
……ごくり。
エリアノールの喉が、大きく鳴った。
幸運な事に今は密室に二人きり。
それからの彼女は挙動不審の極みだった。
辺りを必要以上に警戒し、戸締りを必要以上にチェック。
鏡の前に立ち、ひとしきり身嗜みを整え、ぷるぷると震えながら元いた椅子に着席。
違う。
違うのですわ。
私はセレティナさんとキ、キキキキスがしたいのではなく、そのあの、治療の一環……そう!治療の一環としてよかれと思ってのあれであって、これは人工呼吸みたいなものでありまして……
かち、こち、かち、こち。
人知れず、エリアノールの胸中でひとり言い訳大会が始まってしまった。
その内容は要約してしまえば
セレティナとキスがしたいわけではない。
治療の一環。
万が一がありえるかも。
私は悪くない。
むしろ感謝されるべき。
と言ったものに終始するのだが、この言い訳が実に三十分も繰り返されるのだ。
その間、彼女の視線はセレティナの唇に注がれているのは言うまでもない。
そして遂に、その時は来た。
ぐ、と膝の上に作った握り拳に力が宿る。
未だ顔面茹で蛸状態のエリアノールは顔を上げ、意を決したように二度、三度と深呼吸を繰り返した。
「……がんばれ……いけ……いくのよわたくし……」
エリアノールの手が、ベッドに掛けられる。
右膝、左膝の順に上がると、ベッドの軋む音がやけに生々しく彼女の鼓膜を揺らした。
心臓は、破裂寸前。
セレティナの顔は、もうすぐそこだった。
セレティナに跨り、徐々に徐々に顔を近づけて。
かち、こち、かち、こち。
ごくり。
エリアノールの喉が、一際大きく鳴った。
気付けば、セレティナの寝息が鼻先に掛かる距離まで近づいてしまっていた。
「はぁ……っ……はぁ……」
穏やかなセレティナの寝息と対極の吐息が、セレティナの前髪を揺らした。
これはそう。
治療であり、疚しい気持ちなど微塵のカケラもない。
エリアノールは心中で、そう唱えて瞼を閉じようとして……
「……お早うございます」
セレティナの群青色の瞳がゆっくりと見開かれた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああ!?!?」
エリアノールはベッドから驚異的な速度で転げ落ち、柔らかなカーペットを敷いた床で激しく頭を打った。
控えていた侍女達が何事かとすぐさま駆けつけたのは言うまでもない。




