口付け
「そこまでよ」
パン!
嫌に響くその手を打つ音が聞こえたのは、女の声と同時だった。
ロギンスの握る『ゲートバーナー』が『誇りと英知を穢す者』の首の肉に食い込むが、その拍手と同時に『誇りと英知を穢す者』の体が霧と化して霧散した。
『誇りと英知を穢す者』の肉体が黒霧となり、意思を持ったように空を流れていく。
ロギンスがそれの行く末を目で追うと、モノクロの少女が微笑を湛えてそこに佇んでいた。
漆黒のポールガウンドレス。
濡羽色の髪。
病的なまでに白い肌。
そしてモノクロの中に浮かぶ紅色の瞳。
モノクロの少女が枯れ木のように細い腕を上げると、黒煙は彼女の掌の上へ。
映像を逆再生したかのようにそれは規則正しく少女の掌の上で集合、収縮し、小さなサイコロ程度のキューブを形成して、ポトリと少女の掌に落ちた。
にこり。
少女は満足気にキューブの感触を左手で確かめて、右手を軽く振るった。
すると右手にはいつ間にか純白の宝石箱が握られており、少女はそれを開くと愛おしそうにその中へキューブを閉じ込める。
そうして再び右手を振るうと、宝石箱は消えるのだ。
「……何者だ」
ロギンスは問う。
『ゲートバーナー』は仕舞わない。
「……何者?そうね……」
モノクロの少女は唇に細指を当て、少し考え込む仕草をしてみせた。
そして、笑うのだ。
悪戯を閃いた年相応の少女の様に。
「恋する乙女。そんなところかしら」
ぞっと。
その笑顔を見たロギンスの背筋に氷が張り付いた。
……違う。
こいつは、人間じゃない。
人と呼んで良いものではない。
何か、得体の知れない何かが人の皮を被り、人語を話している様な……。
ロギンスは『ゲートバーナー』を軽く握り直した。
「生憎だが俺の知る乙女は魔物を使役したりはしない」
「あら、知らないの?恋する乙女は無敵なの」
「すまない。そいつは知らなかった」
刹那。
『ゲートバーナー』が躊躇いなく振るわれた。
ロギンスの丸太の様な腕が、その力を遺憾無く発揮して巨剣を横薙ぎに導いた。
竜の首すら容易く切り飛ばすその一撃が、少女の体を腹から二つに分かとうとして。
しかし『ゲートバーナー』は空を切る。
「……何?」
手応えはない。
瞬きもしない内に、少女の体が忽然と消えたのだ。
「野蛮な男はモテないわよ?ねえ。セレティナ」
それは、ロギンスの遥か後方。
少女はいつの間にかダンスホールの中央へ。
横たわるセレティナを大事そうに搔き抱いて、少女はうっとりとその視線をセレティナの顔に這わせている。
「その女性から離れろ」
「何故?」
「何故、だと?」
「愛する者同士が何故離れなくてはならないの?貴方、無粋ね」
「お前が愛を語れるのか」
「不思議な事を言うのね」
「……お前は、人ではない」
……ぴたり、と。
モノクロの少女の動きが止まった。
「……ふぅん。貴方、面白いわね」
熱を帯びた視線は、セレティナから離さない。
されど少女の声はどこまでも仄暗く、冷酷を秘めている。
「……流石、オルトゥスの後を継ぐ者と言ったところかしら」
でも。
少女はそう付け加えて。
「貴方にオルトゥスの役は、担えない」
ぎょとり。
背筋の凍る様な悍ましい紅色の視線が、ロギンスに絡みついた。
「…………っ!」
ロギンスは、動けない。
蛇に睨まれた蛙のように、ロギンスは指先さえ動かすことが出来なくなった。
少女は微笑を浮かべると、視線を再びセレティナへ。
火傷する様な熱い眼差し。
細指をセレティナの美しい輪郭に這わせ、その小さく美しい唇を触った。
何をしている。
ロギンスは動けない。
声を出す事すら出来ない。
ロギンスは、少女の成す事を黙って見ておく他無かった。
ゾワゾワ。
セレティナの唇に触れた少女は、歓喜と興奮に身を捩らせた。
頬は上気し、白い肌にはうっすらと桜色が差している。
「……ねえ、セレティナ。貴方はまだ私を愛してくれていたのね」
少女はそう言って。
ゆっくりと自分の唇を、セレティナの唇に重ねようと……
……しかし、僅かな逡巡。
「ふふ」
少女の目標は唇から、首の付け根へ。
少女はそこに唇を這わせると、セレティナに吸い付いた。
……決して少なくない時間、少女はキスを愉しむと恋人との別れを惜しむかの様に首筋から唇を離した。
情熱的な熱い吐息。
透明な雫が、少女の唇とセレティナの間に糸を引いた。
「……今はこれでいいわ。だって初めてのキスは、貴方からして欲しいもの」
少女は、笑う。
まるで本当に恋する年相応の乙女の様に。
少女はゆっくりとセレティナを離すと、愛おしそうに絨毯の上に寝かせた。
「……ディセントラ」
少女は……ディセントラは鷹揚に立ち上がった。
「……この国では『黒白の魔女』と。そう呼ばれているそうね」
「…………っ!?」
ロギンスの喉が、思いがけず干上がった。
『黒白の魔女』。
只の伝説の存在では無かったのか。
いや、しかし。
ロギンスは、ディセントラを睨みすえた。
その少女の放つ存在感、異様さ、底知れぬ力……何に於いても、確かに伝説に謳われる程のものはある。
「怯えることはないわ。だって私は、私が欲しいものの為にしか動かない」
だから……そうね。
ディセントラは、紅色の瞳を細めて。
「精々平和を守っていなさい。次代の英雄さん」
それではご機嫌よう。
ディセントラはそう言ってスカートを摘むと、恭しく頭を下げた。
そうしてロギンスがひとつ瞬きをする間に、ディセントラの姿は虚空に消える。
「……どういうことだ」
漸く自由を得たロギンスのその呟きが、虚しくダンスホールに響いた。




