死の舞踏
宝剣『エリュティニアス』が右に左に、指揮棒の様に空を駆け回る。
『誇りと英知を穢す者』はそれを無防備に受け、黒の飛沫を散らかしながらぎょろりぎょろりとセレティナを見ている。
「くそ……!」
セレティナは思いがけず毒を吐いた。
『誇りと英知を穢す者』の所作一つ一つに傾注しながら、セレティナは振るう剣を止める事はしない。
……しかし、これでは暖簾に腕押しだ。
セレティナは足底で『誇りと英知を穢す者』の腹に蹴りを入れると、弾かれる様に距離を取る。
徐々に徐々に。
疲労という大蛇がセレティナの足に、腰に、腕に絡みついてくる。
四肢に鉛を仕込んだ様な感覚と乱れる呼吸。
セレティナは暴れる肺と心臓を抑えながら、額に浮かぶ汗を拭った。
『誇りと英知を穢す者』は、待っている。
セレティナが泥沼に浸かり、翼が捥がれるその瞬間を、蠢く八つ目が期待している。
……あの時は。
セレティナは過去に『誇りと英知を穢す者』と対峙した事を思い出す。
彼女がオルトゥスであった時は『誇りと英知を穢す者』を彼の剣で抑え込み、彼の旧友であったイミティア・ベルベットが魔法的に奴を燃やし尽くして討伐した。
……火。
火か?
セレティナは、反芻する。
今、この場に魔法士はいない。
しかし『誇りと英知を穢す者』を倒す手段が魔法では無く、火であるならば。
セレティナの目が、薄く細く黒の脅威を睨み据える。
「試してみる余地は、ある」
それは、セレティナの形の良い唇が真一文字に結ばれたのと同時だった。
『誇りと英知を穢す者』の体がバネの様に収縮し、正に弾かれたバネの様に跳んだ。
「うっ!」
速い。
気付けばそれは、セレティナの目前に迫っていた。
驚異的な速度でセレティナの睫毛の僅か上を、刃が通過する。
面食らったセレティナは剣の回避以外の行動が取れず、『誇りと英知を穢す者』の体当たりをまともに喰らい、奴の体諸共にガラス窓に突っ込んだ。
巨大なガラスが割れ、けたたましい音と共にセレティナの体が廊下の床に打ち付けられる。
「がっ……はぁ……!」
大量の空気がセレティナの肺から押し出された。
背に少なくない衝撃を伴い、鈍痛に顔を歪ませる。
ぎょろりぎょろり。
馬乗りになった『誇りと英知を穢す者』の八つ目が、セレティナの息のかかる距離に迫り、黒の両剣がぎらりと瞬いた。
「ぐっ……!」
『誇りと英知を穢す者』の右腕、次いで左腕がどろりと槍の形に変形し、弾丸の様な速度でセレティナの頭蓋を貫いた。
……かの様に見えたが、セレティナは頭を僅かに身動ぐ事でなんとかそれを躱す事に成功する。
『誇りと英知を穢す者』の両腕の槍は石畳の床をいとも容易く貫通し、床に巨大な穴と蜘蛛の巣状のヒビ割れを形成した。
……怖気の走る威力だ。
セレティナは馬乗りになられながら、宝剣『エリュティニアス』を手放した。
この間合いで、長い剣は却って脅威になり得ない。
セレティナは藻搔く手でなんとかそれを握り込むと、弾かれた様に上体を起こして『誇りと英知を穢す者』の目にそれを突き刺した。
ガラスの破片。
セレティナの白く美しい手に握り込まれたガラス片は、容易く『誇りと英知を穢す者』の肉を食い破った。
痛覚が有るのか無いのか、それは定かではないが『誇りと英知を穢す者』の体が僅かに硬直した。
その隙をセレティナが見逃す筈も無い。
セレティナはえいやっ!と僅かに出来た『誇りと英知を穢す者』と自分の隙間に身を滑らせると、なんとか馬乗りの状態からの脱出に成功する。
その間、床に散乱している砕けたガラス片が彼女のドレスを引き裂いて背に数え切れぬ程の切り傷を形成するが
「……死ぬよりはずっと安い」
セレティナは意に介さない。
流れる様に『エリュティニアス』を回収し、再び『誇りと英知を穢す者』から距離を取った。
背中には無数の切り傷。
ガラス片を握り込んだ事で、利き手も血が垂れている。
肺は喘鳴を始め、四肢は疲労で僅かに震えている。
満身創痍。
セレティナの状態は、誰が見てもそう捉えられるものだった。
……しかし、セレティナは負けられない。
負けられないからこそ、彼女の瞳は負けていない。
群青の瞳はどこまでも気高く、その立ち振る舞いは皇帝の如く。
その背中に、何ら負い目は無い。
臆するな。
前進せよ。
「来い!」
セレティナは吠えた。
呼応する様に、『誇りと英知を穢す者』もゆらりと上体を起こして---
一合。
セレティナの、ともすれば演舞とも思われる流麗な剣と、『誇りと英知を穢す者』の破壊衝動にのみ囚われた凶刃が交錯した。
セレティナは、吠える。
吠えて、吠えて、吠えて。
己を鼓舞し、昇華する。
一合切り結ぶ度に彼女の体力、精神力は抉れる様に削り取られた。
セレティナの活動限界時間など、とうに超えている。
肺はか細くひゅうひゅうと呻き、剣を握る力も頼りないものだ。
次の瞬間、ともすれば自分の体はバラバラに砕け散っているかもしれない。
セレティナは奥歯を食い縛り、さりとて自分を更に追い込んでいく。
私は、オルトゥスだ。
この国を守護する、伝説の騎士なんだろう。
ならば救ってみせろ。
その眼に映る全てのものを。
セレティナの剣は止まらない。
その切っ先が淀む事も、悩む事も無い。
あるのは緩急のみ。
英雄の手に握られた宝剣は、踊る様に空を舞う。
舞台は廊下から、再びダンスホールへ。
華麗にステップを踏み、セレティナはしかし悟られぬ様にそこへと獲物を誘う。
悟られぬ様に、気づかれぬ様に。
細心の注意を払いながら。
無人のダンスホール中央。
踊り手は世にも美しい少女と、黒の化け物。
観客は無く、音楽と云えるものはない。
聞こえてくるのは剣が重なる音と、少女の荒い息遣いのみ。
歪で、ともすれば瞬く間に死という終幕が降りる死の社交界。
終幕は、近い。
セレティナは足元のそれを蹴り上げた。
それは、小さな酒瓶。
ラベルには、大陸内でも相当に高いウイスキーの銘柄が描かれている。
恐らく避難したボーイの誰かが落としたものだろう。
宙に浮いたそれをセレティナの剣が捉え、酒瓶が爆発したように炸裂した。
中身が弾け、中のアルコールと酒瓶の破片が『誇りと英知を穢す者』の体に降りかかる。
「頼むから、死んでくれよ」
セレティナは言葉を口の中で転がすと、宝剣を宙に勢い良く放り投げた。
突然の行動に、『誇りと英知を穢す者』の八つ目が光った。
セレティナは今正に丸腰だ。
『誇りと英知を穢す者』は右腕をどろりと槍に変質させると、セレティナに勢い良くそれを突き出した。
返すセレティナはそれを、左手で受け止めた。
「ぐぁっ……がああああああ!!!!」
槍はセレティナの雪の様な掌を容易く貫通した。
セレティナが堪らず絶叫すると、『誇りと英知を穢す者』の瞳に愉悦の色が浮かび上がった。
セレティナはそれを見て
「……油断したな……」
僅かに笑った。
バキン!!
何か、金属が弾ける音が頭上から鳴り響いた。
『誇りと英知を穢す者』の八つ目が弾かれる様に頭上に向くが、もう遅い。
ここはエリュゴール王国に於いて、最も華美なダンスホール。
頭上にぶら下がるものといえば。
直後。
鼓膜を食い破る程の音を立てながら、それが『誇りと英知を穢す者』の頭に落下し、黒の体を押し潰した。
超巨大シャンデリア。
セレティナの知る限りエリュゴール王国に於いて大きさだけなら随一であろうそれは、圧倒的な質量を持って『誇りと英知を穢す者』を圧殺する。
セレティナが投げた宝剣は、これを落とす為のもの。
そして。
轟ッッッ!!!
シャンデリアの蝋燭が、『誇りと英知を穢す者』の体に付着したアルコールに着火し、巨大な火柱を打ち立てた。
『誇りと英知を穢す者』が、悲鳴を上げている。
黒板を掻き鳴らした様な、不快な悲鳴だ。
巨大なシャンデリアの下で踠き、きいきいと泣き喚く様はまるで地獄の業火に焼かれる咎人のそれだ。
セレティナはそれを眺めながら、漸く膝をついた。
彼女の左手の風穴からは、どくどくと鮮血が垂れ流れている。




