怒りが体を凌駕して
音より速く、光さえ置き去りに。
彼女の剣を見たものがいれば、きっとそう錯覚する事だろう。
セレティナの体が放たれた一本の矢となって、『誇りと英知を穢す者』に殺到する。
セレティナに操られる宝剣『エリュティニアス』は、まるで泣いている様だ。
銀色の閃きは涙の雫となり、空を切る甲高い音は咽び泣く声。
剣は人を映す鏡、と誰かが言っていた。
セレティナは今、泣いている。
荒れ狂う剣戟の最中、彼女の瞳から溢れた涙は重力に逆らって……まるでダイヤモンドダストの様に空に舞う。
しかし彼女の心は恐ろしい程に静かだ。
波風立たぬ小さな湖畔のほとりの様に、穏やかで、揺れる事はない。
穏やかで、静かで、それでいて煮え滾る様な怒りがセレティナの腹の腑に沈殿している。
それは、『誇りと英知を穢す者』に対する怒りではない。
その怒りはセレティナが、自身に向けた業火だ。
母は。
メリアは笑っていた。
そしてこうも云った。
愛してる、と。
私は……俺は、何をしているんだ。
その怒りは、毒の様にセレティナの心を蝕んだ。
何の為に騎士になると。
何の為に剣を取り、己を鍛えてきたのか。
世の中どうしようもない事はある。
しかし、それでも、自分の目に映る世界くらいは護ると誓ったのではないのか。
セレティナは自分の余りの無力さに、怒りを覚えてならない。
悔しい。
苦しい。
セレティナの剣は、加速する。
凡そ十四かそこらの小娘の振るう剣の冴えではない。
怒りが疲弊した体を凌駕し、十全以上の実力を体現した。
そして、その荒れ狂う怒りさえセレティナの鋼の理性が制御している。
体を心が追い越して、そしてその心をすら制御する理性。
セレティナは、修羅と化した。
天上の剣は更に冴え渡り、覚醒する。
宝剣『エリュティニアス』が、横薙ぎに振るわれる。
『誇りと英知を穢す者』は右腕の剣でそれを受け、返す刃で左腕をつき出そうとして……そこを弾き落とす様にセレティナの二撃目が左を制する。
『誇りと英知を穢す者』が二撃を打つ間にセレティナは三撃、四撃と打ち込んでいく。
それは先の先を行く神速の絶技。
『上級』の魔物でさえ遅れを取る程の反射速度と剣速。
溢れる涙を拭う事無く、セレティナは『誇りと英知を穢す者』を一気呵成に攻め立てていく。
『誇りと英知を穢す者』の右腕が、ボッ!と空気を蹴散らしながら突き出された。
セレティナは、それを僅かに首を傾ぐ事で回避する。
頬が切れ、赤の飛沫が空に舞う。
セレティナは意に介さない。
右腕に沿う様に、彼女の体が『誇りと英知を穢す者』の手元まで滑り込んでいく。
セレティナの何処までも底冷えするような群青色の瞳が、八つ目を睨んだ。
銀が、閃く。
ひとつの瞬きの間に『誇りと英知を穢す者』の体が二つから四つに、四つから八つに切り裂かれた。
しかし。
どろり、と。
八つ裂かれた『誇りと英知を穢す者』の肉片が、変質していく。
べちゃべちゃと床を肉が叩き、肉は床に付着したそばから液体へ。
黒の水溜りができ、そこから『誇りと英知を穢す者』の体が這い出てくる。
ぎょろぎょろ。
まるでなんでもないと言うように、『誇りと英知を穢す者』の八つ目が蠢いた。
セレティナは思いがけず舌を打つ。
彼女の頬を一筋の汗が撫ぜた。
怒りが肉体を凌駕する。
聞こえはいいが、それ即ち自分の限界を超えた極限の状態にあるということ。
時間制限はいつきてもおかしくない。
セレティナは、転がるメリアに視線を走らせた。
メリアはぐったりと自分の作った血溜まりの中に倒れている。
意識は無く、震えるように呼吸しており、いつ死んでもおかしくはない。
セレティナは逸る気持ちを、抑えつけた。
焦りは油断を生む。
戦場において油断は致命的な何かを齎す。
ふっ!
しかし深呼吸は、しない。
その時間すら惜しい。
セレティナは鋭く息を吐くと腿に力を溜め、矢の様に飛び出した。
「お前は、殺す」
『誇りと英知を穢す者』を睨むセレティナの瞳は何処までも冷たく、そしてその奥には黄金さえ溶かし尽くす業火が、潜んでいた。




