騎士の誓い
ふわりと香る。
それは、果実の様な甘い香り。
エリアノールの肩に置かれた小さく滑らかな手はどこまでも優しく、彼女の心を和らげた。
「セレティナ、さん……」
「安心して。私の背に隠れていてください」
エリアノールは泣いていた。
ぽろぽろと、大粒の涙が止めどなく溢れている。
セレティナの醸す不思議な包容力に、エリアノールの心が溶けていく。
セレティナは額の汗を拭うと、短く息を吸い込んだ。
「お母様!」
セレティナの澄み渡る声が、喧騒を裂いた。
「セレティナ!こっちは大丈夫!陛下と王子は無事よ!貴方は姫をお連れして逃げなさい!」
幾許かの時を置いて、母の声が喧騒の中から返ってくる。
ふう、とセレティナは息を吐いた。
「陛下はご無事か……。お母様はなんと頼りになる人だろうか」
ぽそりと言葉を転がした。
少しの安堵と、決して少なくない緊張がセレティナの胸に渦を巻く。
セレティナは小さく剣の柄を握り直した。
余分な力は掛けず、軽く握手でもする様に。
……今世でも、護ってみせるさ。
群青の瞳が、決意の焔と燃え上がる。
きゅっ。
エリアノールの指が小さくセレティナのドレスを摘んだ。
その指は、頼りなく小刻みに震えている。
「セレティナさん、私は……」
「エリアノール様、私が貴女を出口まで安全にお連れします。大丈夫、これでも剣の腕には自信があるんです」
セレティナは微笑んだ。
「で、ですが私足が竦んで思う様には……!」
「怖いのなら、私の足元だけを見ていてください。足が竦んだのなら、ゆっくりの歩みで良いです。大船に乗ったつもりで私に付いてきてください。決して、エリアノール様に奴等を近づけさせはしません」
「は、はいぃ……」
「では、行きますよ」
時間も余裕も無いのはエリアノールにも分かっている。
エリアノールはこくこくこくこくと、何度も頷いた。
セレティナと話す内、彼女の切迫した心は既に蕩かされていた。
なんなんでしょうか、この安心感は。
セレティナさんは私と同じ年齢の、女の子だというのに……。
もしかして、私の王子様って……。
ぶんぶんぶん!と、頭を振ってエリアノールは頬を叩いた。
こんな時に、そういう夢見がちな事を考えている場合では無い。
そんな事は彼女の頭でも理解している。
けれども彼女の心臓はそういったものを振り切って、とくとくと高鳴ることが止められない。
「がんばれエリアノール。まずは、生きるのよ」
エリアノールはセレティナに促されるまま、彼女の後を付いていく。
震える足で一歩、また一歩と、地獄の中を歩んでいく。
エリアノールはセレティナの美しい足を目で追い、彼女の背中に付いていった。
セレティナの操っている宝剣が奏でる風切り音と、肉を裂く音。
彼女の荒い息遣い。
餓鬼の絶叫、ついで血飛沫が床に飛ぶ。
エリアノールは、耳を塞いだ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
心の内で、三度そう唱える。
セレティナさんが私を護ってくださる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
そう、姫を守る騎士はいつだって無敵だ。
どの御伽噺でもそうだった。
エリアノールは耳を塞いで、祈った。
お母様、私とセレティナさんをどうか御守りくださいませ。
姫と姫騎士は、地獄を歩く。
ゆったりとした足取りで。
*
「エリアノール様。大丈夫ですか?」
鈴の様な声。
エリアノールはハッと我に返った。
ここは……王城の庭園。
ダンスホールからはどうやら逃れられたらしい。
花々の甘い香りが、エリアノールの鼻腔をくすぐった。
しかしいつの間に……。
余りにも現実離れている体験に、どうも頭が朦朧としていたらしい。
それに極度の緊張状態にあって脳が酸欠を起こしているようだ。
あれからどれ程の時間が経ったのだろう。
エリアノールはぷるぷると頭を振ると、セレティナに向き直り……
そして、エリアノールは息を飲んだ。
セレティナの、その悲惨な有様を見て。
「セレティナさん、そ、それはどうなって……大丈夫ですの!?」
セレティナの全身は、バケツで浴びた様に赤黒い血に染まっていた。
汗と血が肌の上で混じり、全身で呼吸する彼女の疲弊は想像に難くない。
「あっ……これは、殆どが奴等の返り血です」
「殆どって……怪我もしてますわ!いけない!早く手当てを!」
「ほんの擦り傷です。唾でもつけておけば」
「唾でもって……それより顔色も優れない様ですし汗も滝の様に……早くお医者様に……!」
捲したてるエリアノールを、セレティナは手で制した。
そして、にこりと笑うのだ。
「お気遣い、有難う御座います」
どきり、と。
その微笑みにエリアノールの胸が高鳴った。
セレティナはエリアノールの両肩に手を置くと「いいですか?」と、親が子を諭す様に、努めて優しい口調で言葉を続けた。
「この庭園を抜けた廊下を真っ直ぐに進めば、城の外に出られます。エリアノール様は、避難してください。ここから先は安全です」
「セレティナさんは……?セレティナさんも一緒に避難するのでしょう?」
「私は戻ります」
「戻るって、死んでしまいますわ!貴女もう、その体……限界なのでしょう……!」
エリアノールはセレティナの手を取った。
その手は冷たく、震えている。
唇は紫色に染まり、血の気が感じられない。
ぜいぜいと喘鳴するセレティナの様子は、エリアノールの目から見ても異常だ。
「私は大丈夫です、エリアノール様」
「嫌よ!嫌!セレティナさん!貴女も一緒に来なさい!」
エリアノールの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。
「もう、嫌なの!魔物に私の大切なものが奪われるのは!セレティナさん!お願い!一緒に逃げましょう!」
エリアノールの頭に、過去の記憶が蘇る。
彼女の母……エリュゴール王国の王妃は、魔物の手によって殺されたのだ。
エリアノールは、もう奪われたくはない。
これ以上自分の大切なものを。
返すセレティナは……、微笑んだ。
「……ありがとうございます。私を、大切なものと仰ってくれて」
セレティナは徐に紅のドレスを、膝の辺りから破り捨てた。
セレティナは露わになった脚で片膝を着くと、右手に宝剣を握り、宝剣を握った手を心臓に当てがってエリアノールに傅いた。
それはエリュゴール王国の騎士が行う、最上級の礼の形。
「私の夢を聞いてくれますか」
「セレティナさんの、夢」
エリアノールの頬を、雫が伝う。
「……私は、騎士になります。騎士になってこの王国の剣となるのが、私の夢にございます。例えこの身朽ち果てようとも、私はこの魂で王と、この国の盾になりましょう」
「何故、そこまで……」
「……私の夢に、ございますから」
傅いたセレティナの表情は見えない。
しかし彼女の語る一言一句と見事な敬礼から、全てが物語っている。
エリアノールはぐしぐしと、涙を拭うと小さく息を吐いた。
「……どうあっても、行くのですね」
「……はい」
「……ならばセレティナさん。……いえ、騎士セレティナよ、私に誓いなさい」
「はい」
「必ず、生きて私の元まで帰ってきなさい。死して魂となって、なんて目覚めが悪すぎますわ。良いですわね?」
「……はい。この剣に誓って、貴女の元へ帰ってきます。エリアノール様」
セレティナはそう言って、エリアノールの翡翠の瞳を真っ直ぐに捉えた。
必ず戻ってくる。
騎士として、この誓いは違えない。
「……では、行ってきますね」
「……ええ」
セレティナは踵を返し、元来た道を帰っていく。
足取りは重く、そのボロボロの背中は今はもう頼り無い。
それでも、セレティナは駆ける。
一人でも多くの命を救う為に。
「……王子様の帰りを待つのだって、姫の役目ですものね」
ぽつりと、エリアノールの言葉が庭園に落ちる。
「必ず、生きて帰って」




