王と令嬢
コツ、コツと。
セレティナとメリアが、静々と歩みを進めていく。
その後を数歩遅れて、バルゲッドとイェーニスが付いてくる。
子爵も、伯爵も、侯爵も、彼女達の歩みを止めはしない。
まるでモーセの奇跡のように、紳士達は彼女達の道を譲るのだ。
無粋な真似はしない。
それもまた、紳士の矜持というもの。
先程の男爵とは、やはり違う。
しかし情欲を蕩かす様なセレティナの美貌と、遅れて香る彼女の甘い匂いに紳士達は皆ゴクリと唾を飲み下した。
セレティナと話がしたい。
あわよくば……、そういった感情を持たぬ男は、この会場には居なかった。
セレティナは歩む。
そうした視線を歯牙にも掛けず、ただ真っ直ぐに一点を目指して。
コツ、コツ、コツ、コツ。
コツッ……。
セレティナとメリアの歩みが止まる。
二人はスカートの端を摘み、片足を僅かに引いて、頭を深々と垂れた。
カーテシーと呼ばれる淑女の伝統的な御辞儀が美しい二人によって行われる様は、やはり画になる。
その二人の半歩先にでたバルゲッドが、傅いた。
「お久しぶりに御座いますガディウス・ヘイゼス・エリュゴール・ディナ・プリシア国王陛下」
王と、王子と、王女。
父の陰で、セレティナは尊い四人に傅ける至上の喜びに打ち震えていた。
ガディウス四世は挨拶を受け朗らかに笑う。
その所作一つで、セレティナの瞳に涙が滲む様だった。
私は今、きっと夢の続きに居る。
死して尚生まれ変わり、御身の前に傅く事が出来る。
なんと……なんと、幸せな事か。
セレティナはゴクリと喉を鳴らし、涙を零さぬように飲み込んだ。
「アルデライト公よ、傅かなくとも良い。今宵は無礼講……とは言わずとも、折角の『春』なのだ。そういったものは無しにしよう」
「ありがとうございます。王の慈悲深き配慮に感謝を」
「お前は昔から儀礼に固いのだ。もう少し肩の力を抜いても良い。それよりも……」
ちらり、とガディウスの視線がセレティナに移る。
セレティナはぶるりと身が震えた。
「そちらの可憐な乙女は其方の娘であったな。社交界は初めてであろう。少し顔を見せてくれまいか」
ガディウスの言葉にセレティナはゆっくりと、垂れた頭を持ち上げた。
ガディウスと、セレティナの瞳が再び交錯する。
「……っ」
セレティナの瞳の奥で、火花が弾けた。
溢れ出す感情に何とか蓋を落とすも、彼女はどうしようもなく胸の奥が熱くなった。
……泣きそう。
それが、セレティナの本音だった。
瞳の群青色が、涙色に滲み出す。
さりとて、涙は零さない。
泣いては駄目だ。
涙はさっき、零しただろう。
セレティナの淑女としての矜持が、それ以上の涙を零させない。
セレティナは、震える唇で言葉を紡ぎ出す。
「お…、お初にお目に掛かります。アルデライト家が長女、セレティナ・ウル・ゴールド・アルデライトに御座います。斯様な佳き日に陛下のお目に掛かれた事を、私は深く感謝しております」
心臓は、今にも破裂しそうだった。
平衡感覚も怪しい。
それでも彼女の口からスラスラと台詞が紡がれるのは、母のメリアの教育があればこそに他ならない。
「セレティナ、か。その美しい容姿に見合うだけの可憐な名だ。良い名前であるな。付けたのはメリア夫人か?」
メリアはにこりと微笑んだ。
「仰る通りです。陛下の御慧眼、流石で御座います」
「メリア夫人、其方も美しく成長したな。初めて見たときの事は今でも思い出されるが、見違えるぞ」
「陛下、その時の話は良いではありませんか。右も左も分からぬ小娘であったが故ですので……」
気恥ずかしそうに頬を染めるメリアに、ガディウスは微笑んだ。
「時にセレティナよ」
「はい、何で御座いましょうか」
先程は何故涙を---。
いや。
ガディウスは言葉を飲み込んだ。
女性の涙の理由を聞くのは、無粋というものであろう。
ガディウスは首を振ると、
「良ければ後で私の息子達と踊ってはくれないか」
ガディウスはそう言ってディオスとウェリアス、二人の息子の尻を叩いた。
「ええ、私で良ければ是非」
「ありがとう、うちの息子達もさぞ喜ぶ事だ」
にこりとセレティナは微笑んだ。
ふふ、とガディウスの頬も緩む。
「……子供とは良いものだな。なあ、アルデライト公」
「ええ、仰る通り」
「……彼が作り出してくれたこの未来に、感謝せねばな」
「彼、とは?」
「私の盟友、オルトゥスだよ」
オルトゥス。
王の口から出たその名に、セレティナの全身の筋肉が硬直した。
感謝せねば。
王は、そう言ったのだ。
王が、そう言ってくれたのだ。
「かの英雄、オルトゥスですな。確かに彼や英霊達のお陰があったからこそ、私達はこうして子に恵まれたのでしょう」
「……ああ。しかし私は若く才能に溢れた彼の命を、戦争などと言う下らないものに費やしてしまった。……オルトゥスは今、天に居て、何を思っているのだろうか。私は彼に感謝こそすれ、恨まれても仕方がない」
恨むなど、あるはずがない。
セレティナの喉が、干上がった。
王は、その様な事に、心を砕いておられたのか。
「王よ、かの英雄は貴方の剣となってこの国を守護したのです。貴方とこの国を護れたからこそ、彼も安心して逝けたのでしょう」
「そうであると、私も思いたいものだ」
「……『我は剣。此の心臓は王を守護する為の脈動を打ち、肉体は鋼となって悪しきを払おう。此の体朽ちる事あればこそ、此の心は常に王の傍にあり、死して尚王を守護する剣となる』」
セレティナの口から、朗々とそれが発せられる。
鈴の様な声音は、何処までも柔らかく王の耳に届いた。
「な……」
ガディウスは、それを知っている。
それは、ガディウスとオルトゥスが最後に交わした会話の一節。
セレティナに語られる事で、あの光景がありありとガディウスの脳裏に蘇る。
「其方……それを、どこで」
「かの英雄オルトゥスは、きっと陛下を恨む事などありはしないでしょう。今も天より陛下のご健勝を願っていると、私はそう確信しております」
セレティナは、そう言って微笑んだ。
「英雄譚好きの侍女がおります故、聞き及んだ言葉を借りさせて頂きました。小娘が生意気を言って、申し訳御座いません」
「英雄譚か……。そんな事まで謳われておるとはな。いやしかしセレティナよ、其方の言う通りだ。私が燻っていてはオルトゥスも浮かばれまい。ありがとう」
「感謝の言葉など、勿体無い」
セレティナはそう言って、深々と御辞儀した。
しかし、英雄譚か……。
ガディウスは言葉を口の中で転がした。
あの会話はオルトゥスと私、二人で交わされた物のはずであるが……。
ガディウスは髭をひと撫でするも特にこれといったものも思い浮かばず、考えるのをやめた。




