慈母
---上がって、上がって、上がって。
仄暗い海の底から、意識が緩やかに浮上していく。一筋の光すら射さぬ深淵から、光射す海面へと。
微睡みの底からまず芽生えるのは感覚。
魂が肉体を得、様々な感覚が巡る。
鼓舞する心臓が血液を駆け巡らせ、全身が仄かに熱を帯びていく。指を僅かに動かすと、命令通りに肉体が動く様がひどく懐かしく感じられた。
そうして、ケッパーはゆっくりと瞼を開いた。
形の良いアーモンドの様な彼の眼に映し出されたのは、絶世と言えるほどに美しい少女の顔。
その少女の顔に収まる群青色の双眸が、彼の朧気な様子に心配気に揺れている。
天女だ。
未だ晴れぬ意識の中、ケッパーが思いついたのはそれだった。
自分は死に、この現世から隔絶した美を持つ天女が自分を迎えに来たのだ。
彼は心地よい感覚に身を委ね、天女の頬に手を伸ばした。
さらり、と。
ケッパーの無骨な指が、天女の頬を撫ぜる。
絹より滑らかで、泡に触る様に柔らかい。
それに、甘い良い香りがする。
---嗚呼、天女というのはなんて美しいものなんだ。
ケッパーが暫くの間その感触を楽しんでいると、
「あの……」
天女の形の良い眉根が困った様に下がり、おずおずと鈴の様な声を奏でた。
ん?
ケッパーの脳が急速に冷え上がる。
彼は、その声を知っている。
それは天女ではない。
ケッパーの朧気だった意識は、完全に覚醒した。
「うわぁぁあ!?セレティナ様申し訳ありません!」
ケッパーの手が弾かれた様に引っ込んだ。
やってしまった。
顔に灼熱と化した血が上っていくのが彼自身にも良く分かった。
そんな様子を見て、セレティナはまるで気にしていない様に楚々として笑う。
「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ。とって食ったりなどしませんから」
「とって食っ……!?」
「ほんの冗談です。それよりお加減はどうですか?」
……そうだ。
自分は致命傷を受けていた筈だ、とケッパーは異常に居心地の良いベッドから身を起こした。
試しに腰を捻り、肩をぐるぐると回してみるが、なんともない。
まるで魔物との戦闘が妄想であったかの様に、彼の体の一切は異常を訴えることはなかった。
「何とも無い……みたいですね。これは一体……?」
「魔法薬を使いました。怪我は完全に回復したみたいで良かったです」
「魔法薬!?そんなもの、俺なんかに使ったんですか!?」
「ええ、何せ私の命の恩人なのですから」
優しげに目を細めるセレティナに対し、ケッパーは恐縮の余りにその大きな上背が一回り小さくなった。
魔法薬は小瓶一本で金貨ひと山程には価値のある代物だ。
ケッパーの様な平民は勿論、貴族でさえ中々手が出るものではない。
そんなものを一衛兵に過ぎない自分に使用するなど、この姫君はなんと懐が深いのだろうか。と、彼は一層に感激した。
「それよりセレティナ様はお怪我などされておりませんか?」
「私はケッパーさんが身を呈してくれたお陰でこの通り、無傷です」
そう言ってセレティナはむんすと胸を張った。
「良かった……」
「ケッパーさん」
「は、はい」
セレティナの瞳が、真っ直ぐにケッパーの瞳を射止める。
ケッパーの背筋が自然、伸びる。
今まですれ違い様などに拝見していた事はあったが、こう面と向かって顔を突き合わせる事は無かった。
セレティナの美しい顔が真っ直ぐ自分に釘付けになっているということにケッパーは堪らなく気恥ずかしくなり、赤面した。
「私を守って頂いて、本当にありがとうございました」
ペコリと。
セレティナが品良く頭を垂れる。
「よ、止してくださいセレティナ様。セレティナ様のような身分あるお方が私のようなものに頭を下げるなど……!」
ケッパーは慌ててそれを制そうとするが、セレティナは頭を垂れたまま頑として動かない。
平民が貴族の旋毛を見る事などそうあり得る事ではない。
いえ、とセレティナは続ける。
「貴方の勇気ある行動が私の命を救ってくださいました。誇りある戦士に私は限りない感謝と敬愛を示さねばなりません。……いえ、示したいのです。本当に、ありがとうございました」
ケッパーは、そうして理解する。
守備隊の先輩達が何故魔物に臆さず逃げ出さず、アルデライト家を護ろうとしたのかを。
護らねばならない。
貴族なんて皆同じようなものだと思っていた。踏ん反り返り、民草から銭を掠め、己の浅はかさを誇示する哀れな生き物達だと。
だが違う。
アルデライトは……セレティナ・ウル・ゴールド・アルデライトという公爵令嬢は。
誓おう。
俺は、セレティナ様にこの剣と心臓を捧げる。
こんなにも情けない自分を認めてくれたこの慈悲深い少女に、全てを捧げる、と。
深々と垂れたセレティナの頭を見ていたケッパーの瞳から、やがて大粒の涙が一粒溢れた。
それはやがてポロポロと幾重にも溢れ、彼はとうとう嗚咽を漏らして涙を流した。
それは尊い人物から認められた歓喜。
それから生還した事への安堵。
劣等感からの解放。
様々な感情が雫となって、彼の瞳から零れ落ちる。
セレティナはそんなケッパーを見てオロオロと視線と手を彷徨わせた。
群青色の瞳が、動揺に揺れる。
「……」
そしてセレティナは一つ決心をすると、白魚の様な細く美しく腕で彼の頭を胸元に抱き寄せた。
びくりとケッパーの頭が一瞬震えて、しかし彼はセレティナの胸元に頭を委ねた。
甘い香りと暖かい感情が彼を包み込む。
セレティナはまるで慣れぬ手つきで、ケッパーのチクチクとした髪の毛を撫でた。
「怖かったですね……辛かったですね……本当に、ありがとうございます」
優しげにケッパーを包むセレティナの口調は、とかく柔らかい。
その二人の姿はまるで母と幼子の様にも、姉と弟の様にも見える。
後日ケッパーがこの日の出来事を常々思い出し、羞恥に悶絶する日々が続くのはまた別の話。




