紅のドレスが擦り抜けて
隊長の号令が飛ぶ。
守備隊の弓から放たれた矢が、鋭い風鳴りをあげながら黒の巨体に殺到した。
それらはぶちゅぶちゅと水気を孕んだ音を立て溺死体然とした腹に食い込むが、魔物は爪楊枝が刺さった程にも身じろがない。
それどころか刺さった矢はみるみる内に黒ずんでいき腐敗し、消し炭になった。
魔物の悍ましく、けたたましい笑い声が大気を震わせる。
「ぐっ……弓は駄目だ!皆精霊の加護を受けた剣を取れ!」
「隊長ォ!やるんですか、あんなのと!」
「死にたくなきゃ死ぬ気で剣を振れ!いいか、黒馬車には近づけさせるな!俺らで上手く誘導し、黒馬車だけでも離脱させる!」
切迫した隊長の命令が飛ぶ。
嫌だ。
ケッパーは、強くそう思った。
魔物は冒険者共や騎士様が駆除するのが本来の仕事だろう。
彼は激しく毒を吐き、自身の運命を呪った。
死にたくない、彼はその一心で剣を取れず硬直する。
そんなケッパーを置き去りにして次々と兵達が馬を操り、魔物に群がっていく。
一人の兵が馬から飛び降り、剣を魔物の腹に突き立てた。
しかしぶよぶよとした体の皮は厚く固く、肉にまで刃は至らない。
その様子をじっ……と見ていた魔物の女神の様な顔が、僅かに微笑んだ。
すると瞬きの間に、巨木の様な腕が恐ろしい速度で兵の体を横薙いだ。
死んだ。
ケッパーがそう思うが早いか、軽鎧を着ていた兵の体はまるでぐずぐずのトマトを潰した様にぶちゃ、と音を立て四散した。
ゴロゴロ、とケッパーの前に兵の首が力無く転がる。
「うぉっ……」
ケッパーの顔面が蒼白する。
その首が、昨日まで笑顔で彼に語りかけていたのをケッパーは知っている。
妻子を持った人柄の良い先輩だった。
今回の遠征が終われば飲みに行こう、とも約束した仲であった。
「畜生」
ケッパーの目端から涙が零れ落ちた。
こんな理不尽があっていいのかと。
彼は短くない間、戦場に身を置いてきたものだから分かる。
戦場に於ける死とはこういうものなのだと。
しかし、斯様な化け物に嬲られるように殺されるのは余りにも酷い。
こんな事になるのなら、田舎で畑を耕していた方がよっぽどマシだと彼は思いがけず臍を噛む。
「ケッパー!」
粘性の翼に振り払われ、のたうちまわる隊長が叫んだ。
ケッパーは弾かれたように意識を戻すと、黒の化け物がどすどすと地鳴りをあげながら彼の元に殺到してきていた。
ひゅっ、とケッパーの心臓と睾丸が縮みあがった。
絶望に染まるケッパーの表情に、魔物は満足気に高笑いを上げて、黒の四本全ての巨腕が濁流を思わせる勢いでケッパーに摑みかかる。
ケッパーは堪らず殆ど反射で馬上から飛んで地面に転がり落ちると、先程まで自分が乗っていた馬は既に魔物の手の中で肉塊と化していた。
「くそぉ……ちくしょおぉ……」
全身の穴という穴から、液体が漏れ出た。
これ以上の醜態はないが、それでもケッパーは為すがままに垂れ流した。
死ぬ、自分は、しぬ。
脳味噌が、ホワイトアウトしていく。
魔物がゆっくりと、ケッパーに振り返ったからだ。
自分を呼ぶ野太い声が、どこか遠くからいくつも聞こえてくる。
ケッパーは震える手で剣を抜いた。
無駄だと分かっているというのに。
せめて死ぬ時はかっこよく、そんな思考が巡ったのか彼の剣士としての気概がそうさせたのか。
それでも、ケッパーは魔物と対峙する。
魔物が八本の足を忙しなく動かし、ケッパーに突撃する。
四本の巨腕が殺到する。
今度は、逃げられない。
「父ちゃん、すまねぇ」
ケッパーはそう言って、
彼の横を、紅い何かがすり抜けた。
ふわりと、この絶望に相応しくない甘い果実の様な香り。
ケッパーの脳に余白ができるその瞬きの間、銀色が鋭く閃き、魔物の腕が切り飛ばされた。
「なっなん……!?」
紅はドレス。
黄金は絹糸の様に繊細な髪。
群青は鋭い意思を秘めた目。
銀に淡く光るは彼女の握る宝剣。
「遅れて、すみません」
春の雪解け水をさえ思わせる澄んだその声は、僅かに緊張を孕む。
セレティナ・ウル・ゴールド・アルデライトの瞳の奥には、怒りの焔が静かに漂っている。




