魔物
馬上で揺られながら、ケッパーの頬は緩んでいた。
幼い頃から田舎で磨いてきた剣の腕をようやく認められ、誉れあるアルデライト家の衛兵として供回りを任されている現状に対して彼は今、十二分以上の充足感を得ている。
貧しかった訳ではないが、ケッパーの家は慎ましやかな暮らしを送っていた。
朝から晩まで野良仕事をし、決して贅沢とは言えない食べ物を胃に詰める毎日。
幼いケッパーはうだつの上がらぬ父の背を見てこう思った。
父のようにはなりたくはないと。
剣の腕を磨きいつかは優秀な兵となって豊かな財を築くのだ、と。
彼の語る夢を馬鹿にするものは多かった。
何せ土に触る仕事しかないような田舎だ。
頭でっかちの年配者に小言を言われる毎日は辛かった。
しかしケッパーは毎日腕を磨き続けた。
森で拾った手頃な木を削り出し、剣に見立てて毎日素振りをし続けた。
来る日も、来る日も。
幸いなことにケッパーには剣の才があった。
彼は瞬く間にメキメキと腕を上げ、気づけば村一番の戦士になっていた。
ケッパーは己の剣腕を確信すると、父母や兄弟にも告げず村を飛び出し方々を周りその剣を振るった。
ケッパーは賭けに勝った。
その腕を認められ、いつしかエリュゴール王国でも指折りの名家に仕えられる様にさえなったのだ。
ケッパーの頬は緩んでいた。
自分の生活は今、満たされている。
弥が上にも彼の気は緩んでいた。
いつか実家に仕送りの手筈を整えねばな、と思考を巡らせたところで
「おいケッパー」
と、前方から野太い声が飛んだ。
彼の前を行く髭面の中年の鋭い眼差しに、ケッパーの背筋が反射でピンと伸びる。
「はい隊長。なんでありましょうか?」
「なんでありましょうかじゃねぇ。勤務中にニヤニヤしてるたぁいい度胸だ」
「はぁ。申し訳ありません」
「気の抜けたヤロウだ。見ろ」
隊長は野太い指で取り囲んでいる豪奢な黒馬車を指差した。
「俺らはかのアルデライト家に仕える誉れ高い戦士だ。一瞬たりとも気を抜くな。バルゲッド様と奥方は勿論、お坊ちゃんとお嬢様に擦り傷一つつけて見ろ。この俺が絶対に許さんぞ」
「し、承知しました」
ごくり、とケッパーの喉が鳴る。
「し、しかし隊長。ここはアルデライト領と王都を結ぶ街道の中でも比較的安全なエリアですし、視界も開けています。あまり気を張っているのもどうか、と」
周りには、若草の草原が広がっている。
春の風に吹かれて緑の波がさざめくその光景は余りにも長閑なものだった。
隊長は短く息を吐くと、諭す眼差しでケッパーを睨んだ。
「お前は魔物に会ったことはあるか、ケッパー」
「い、いえ。ありません」
「そうだろうよ、あれは王国領内では珍しいもんだ。だが決して出ないわけじゃねぇ。奴等は恐ろしいぞ」
「はぁ」
何が恐ろしいものか、とケッパーは内心侮った。
ケッパーは大型の獣程度なら容易く相手取る事ができる。
それは勿論、この黒馬車を守護する二十名弱の隊員達なら皆可能な事だ。
その戦士達が十分な武装を持って隊列を組んでいるのだ。
何を恐れる事があるのだ、そうケッパーは思った。
「魔物ってなぁ地中を泳ぐものや影に潜むもの……空を駆るものだっている。どこから湧いてくるかわからんぞ」
「はぁ。空ねぇ……」
ふと、ケッパーに大きな影が落ちた。
なんだ?
ケッパーに些細な違和感が巡る。
今日は占い師の予言では快晴の筈だが……。
そんな、軽い考えでケッパーは空を仰ぎ見た。
なにか、いる。
ケッパーの背筋をゾワゾワと不快な何かが走った。
それは、黒かった。
太陽と重なるせいで詳しい事は分からないが、黒く、巨大で、蝙蝠の翼を広げた何かが遥か頭上に飛んでいる。
「全員、武器を取り隊列を整えろ!」
隊長の絶叫に近い号令がケッパーの鼓膜を叩いた。
豪気で、しかしいつも冷静な隊長の横顔が緊迫に歪んでいるのをケッパーはこの時に初めて見た。
「有翼種の魔物だ!来るぞ!」
黒い魔物は、みるみる内に落下する。
瞬く間にそれが着地、というより地面に激突すると、まるで爆裂した様に埃を巻き上げ、それはケッパー達の前にその巨体を晒した。
「ひっ……!」
思いがけず、ケッパーは小さく悲鳴を上げた。
それは、醜い。
ぶくぶくと膨れ上がった溺死体の様な体は、大の男が大きく見上げるほどに聳え立ち
蝙蝠を思わせる翼は広く、大きく、何か粘性の液体を撒き散らしている。
肥大した赤子の様な腕が四本に、脚が八本。
彫刻から切り取った様な瞳の無い、女神を思わせる顔。
黒く、大きく、余りにも趣味が悪い。
ケッパーの胃の底から、マグマの様に熱いものが込み上がった。
魔物は叫ぶ。
数百人の女の怨嗟が篭ったかのような悲鳴に近い雄叫びが、兵達の心胆を寒からしめた。
ケッパーの股間が熱く濡れる。
こんな化け物が出るなんて、聞いてないぞ。
ケッパーは震える手で、矢筒から一本の矢を引き抜いた。




