幻想
書籍第一巻好評発売中!
何卒よろしくおねがいします。
セレティナは両手を広げた。
戦闘の意思も、反撃の余地もない。
友好的に、融和的に、ただそこに立つ。
自らの命を刈り取る巨剣――かつての英雄オルトゥスを模した狂戦士を前にして、だ。
「さぁ」
そして、促す。
セレティナは行動を既に示したと言わんばかりに、その瞳に決意を湛えている。
「臆したかリキテル。難敵セレティナ……オルトゥスは今その首を無防備に差し出しているぞ。またとない好機……逃す手はない」
「てめぇ……」
頭鎧の中で、リキテルは犬歯を剥き出しにした。
彼にとって今、セレティナの言動や態度、雰囲気そのもの……全てが不快でしかない。
こんな決着、リキテルの望むところではない。
”試合”であったのなら、これは間違いなくセレティナの勝利だった。
リキテルの剣を往なし、不落の鎧を貫き、その心臓に刃を突き立てられるといったところでこの発言……不可解で、不快。力でしか語れぬリキテルにとって、最も忌むべき情け。
……情け?
友人であるイミティアを殺して、まさに命の獲りあいをしていた相手に向かって首を差し出すことが、果たして情けなのか。セレティナの意図していることがリキテルには読めない。
そんな困惑の渦中にあるリキテルの手を握ると、セレティナは自身の首筋に巨剣の刃先を当てがった。
「リキテル……お前の望むことを、望んだとおりにやるんだ。お前の心の叫びに、お前は従えばいい」
恐ろしい切れ味は、セレティナの白い首筋にプツと食い込んで、鮮やかな出血を齎した。
このまま……そう、このまま刃を引くだけで、セレティナの細い首はコロリと落ちるだろう。
しかしセレティナは真っすぐ、天元を射貫く様な視線をリキテルから一瞬たりとも外さない。
「殺すぞ」
仄暗い声音。
リキテルは、本気だった。心からの宣言。
ここでセレティナを殺してしまい、どこへなりとも行く。
これだけの力、翼があれば、もう彼を縛る柵はないのだから。
それは、リキテルが幼少の頃から欲していた夢であり甘露。
「さぁ」
セレティナは今一度、諸手を広げた。
まるで抱擁をさえ求めるようだった。
リキテルはひとつ息を吐きこぼす。
葛藤はない。
そんなにお望みなら殺してやるという気概さえあった。
人を殺すという、リキテルにとって安い決意を固めると、彼は一気に剣を引いた。
黒の刃が、芸術品の様なセレティナの白い首筋に食い込み、頸動脈を掻き切る。
噴水の如く首の割れ目から血が飛び出し、剣の先まで引き終わる頃にはセレティナの首は八分まで斬られていた。しかしずれる頭の重みを支えきれず、肉と皮だけで繋がっていた首はやがて繊維質な音を奏でながらその頭をコロリと手放した。
天上に迫るセレティナの美を冠する顔が、無様に石畳に落下し、ぐちゃりとした音と埃を舞いあげる。
――はずだった。
「あ……?」
しかしそうはならない。
そんなことにはなっていない。
「……」
セレティナの首はまだ繋がったまま、未だにリキテルの瞳をしっかりと見据え居ている。
何か魔法が起こった、とリキテルは思った。
時を操れる魔法か、幻影の魔法か、種別は分からないが、何か不思議なことが起こったのだと。
何故なら、こうして今セレティナが生きていることが証明しているのだから。
「どうした」
セレティナは小さく言葉を発した。
その声音は、決して強いものではなかった。
優しくもない。しかし冷たさもなく、母の様な温かさと厳しさのある声音だった。
咎めるようにも、憂うようにも、慈しむようにも聞こえる。
リキテルは今一度、刃を引こうと決意した。
……しかしどうだ、その腕はびたりと動かない。
「お、おおおおおおおおおおおっ!!」
巨岩の様な重みだった。
自身の腕であるにも関わらず、自分のものだとすら感じない。
余りに重く、余りに不可思議。
「てめぇ、何しやがった……!?」
リキテルの体に数多くのストレス反応が発露する。
発汗、動悸……軽い眩暈。
歯を食いしばると、セレティナを射殺す様に睨みつけた。
「リキテル」
セレティナは何も答えない。
ただ彼の名を呼んで、諸手を広げるばかりだった。
「ぐ……っ!!! お、おおおおおお……!!!」
リキテルは、動けない。
殺害対象を前にしながら、彼は次のアクションを起こせない。
そればかりか、するりと巨剣が手から擦り抜けた。
手放された凶器は、重厚な音を立てて石畳を穿つと、霧の様に消えていく。
リキテルの手にはもう、セレティナを傷つけるものはなくなった。
それを見届けたセレティナは一歩踏み出した。
遅く、優しい足取りだ。
彼女は広げた手をゆっくりとリキテルの背に回すと、未だに困惑と苦渋の最中にある彼を優しく抱きしめた。