変貌
「あ……ガァ……ッ」
イミティアは完全に首根を、頸椎ごと握られている。
へし折られ絶命するのが先か、それとも意識を手放すのが先か。
彼女の命が、握られている。
「やめろリキテル!」
絶叫するセレティナ。
『エリュティニアス』を縦横無尽に闇の鎧に走らせるも、効果はない。
「オ、ルトゥス……ッ」
振り絞られるイミティアの声。
彼女は明滅する視界の最中、最後までセレティナを捉えていた。
「逃、ゲ……」
巨剣が、振り下ろされた。
刃は右肩の肉に食い込み、左の腰に掛けて直線を描く。
血の緋色が空を穢し、糸の切れた人形と化したイミティアはその場に崩れ落ちた。
「イミティアァ!!」
絹を裂いたようなセレティナの絶叫。
リキテルはセレティナの悲壮に満ちた形相を、傍観していた。
『ほらね』
そんな無関心な言葉を彼は呟いた……様な気さえ。
セレティナの視界に映る全てが、ねっとりと速度を落としていく。
耳に栓をした様に音はくぐもり、自身の心臓の音と呼吸の音だけが浮き彫りになっていく。加速していく思考、駆け巡るイミティアとの思い出、彼女の笑顔……それから涙。
一つ一つの掛け替えのないイミティアとの積み重ねが、セレティナの全身のシナプスを駆け巡り、脳漿を刺激する。
喜び、悲しみ、驚き、困惑……。
様々な感情がセレティナの腹の上で渦を巻いていく。
それは、たった僅かの時間だったのだろう。
だが、永久とも思われる思考と感情のの濁流に晒されたセレティナ
に最後に残ったものは……怒りだった。
――セレティナ・ウル・ゴールド・アルデライトが、明確にキレた瞬間だった。
強靭な克己心持つセレティナの魂が、オーバーヒートする。
人の持つ感情の中で、最も強烈で制御できぬ激情が五体を駆け巡った。
……しかし、それは余りにも静かなものだった。
激昂することもなく、身を震わせるでもない。
遠くに見える場所は吹きすさんでいるのに、自分が居る場所だけはもの静かという……台風の目にいるような錯覚をさえ起こすものだった。
「……」
セレティナが、英雄オルトゥスが自身に怒りを抱いているのを、リキテルは明確に感じ取っていた。友人を目の前で斬られたのだから、それはごく自然な反応だ。
だが、リキテルが興味があるのはそこじゃない。
この理不尽な現実を叩きつけられた瞬間の後にこそ、英雄がどういう反応を示すのかに興味があったのだ。
じっと待っていると、セレティナはようやく口を開いた。
その表情に、色はない。涙の一粒もない。
「そこまでやるんだな……やったんだな」
厳かな声だった。
思考が、読めない。
誰にも読めぬ声の色だった。それはセレティナ自身でさえ。
……セレティナは、淡々とこう続ける。
「……分かった。”本気”でやろう」
そう言って、セレティナは剣を構えた。
……と同時に、彼女の周りの空間が俄かに歪み始める。正確には歪み始めた様に見える、だ。
凄まじい剣気。
気温が一気に五度ほど引き下がり、風さえ身動きしない。
セレティナを取り囲む景色は、蜃気楼のように揺れている。
……もはやここまでくれば妖気だ。
リキテルの足元が、撓み始める。
今にも底抜けしてしまいそうな頼りなさが、足元に展開し始めた。
闇に侵されたリキテルの心に、人間らしい動揺が生まれる。
それは目の前の少女が、何か得体のしれない怪物に変貌した恐怖。
実際に皮を食い破り、中から悍ましい怪物が這い出てくれたならまだ納得できるものを、目の前にいる美しい少女は、美しい容姿を保ったまま変貌を遂げた。
それから、怒らせてはいけない人間を怒らせてしまったことに対する後ろめたさ。
例えば親やパートナー……口論になったとして、その果てに深く傷つけるようなことや失望させてしまうことを口走ってしまったときに感じるあの仄暗い後ろめたさがそこにはあった。
大切なものを、自分の力の無さ故に失う恐怖の苦しみをあの英雄に知らしめたい欲求。
そして他者を信じきれぬ底なしの猜疑心から生まれた結果がこれだ。
殺される、とリキテルは思った。
実際の力量はともかく、手にした力を勘定にいれれば敗北は決して有り得ないはずなのに、彼は自身が殺されるというある種の未来予知を経験した。
「……こい」
不落の要塞に、今再び黄金の少女が立ち塞がった。
群青色の瞳に、ひとつの決意を灯して。
「バ、カヤロウ…………」