最終章
空に、大地に、蔓延していた闇が収束する。
宙に浮かぶリキテルの五体に絡み着くように、濃く、黒より更に濃く闇が凝縮していく。
手足に纏わりついたそれらは、蝋人形の様に不格好な五体を象っていたが、次第に輪郭を帯び始める。鋭利に、流麗に、力強く。
「……進化? 変態? 球になったりなんだりと奇妙な奴だ」
イミティアが目を細めた。
そうしている内にも、変化は続く。
次第にその形状は、彼女らにとって馴染みの深い形状を象っていった。
正義を思わせる頭鎧。
胴から爪先まで、油断の無い意匠を凝らせた堅牢な鎧。
純潔を思わせる純白は、今は光を通さぬ漆黒を讃えている。
翡翠……ではない、はためく外套もやはり漆黒だ。
その威容……色こそ違うが……。
「リキテル……」
セレティナは様々な感情に濁った呟きを零した。
リキテルが纏っている”あれ”は、且つての英雄オルトゥスが装備していた聖鎧を模したものだ。高潔に満ちた純潔は濃闇穢され、頭鎧の下からは赤黒い光が二つ揺らめいている。
彼が従える外套は、蝙蝠の様な翼に姿を変えた。
言及するまでもない、オルトゥスと違い、あれは飛行能力を有している。
リキテルが空いた手を軽く振るうと、両の手に見事な二対の巨剣が握られた。
それもやはり、生前オルトゥスが王より賜れたものに他ならない。
彼はセレティナを一瞥すると、翼を翻して地上へと突進していく。
……その先にあるのは、ウルブドールに残った義勇軍の群。
「オルトゥス! あいつ……!」
「ああ! 行こう!」
言うや否や、再び狼と化したイミティアの背にセレティナが跨った。
こうしてはいられない。リキテルは、殺し尽くすつもりだ。
激情によるものではない、彼の意思で、彼の怒りではなく、彼を救う者を試すつもりで。
◇
ウルブドール西門。
リキテルが吐き零した闇の霧によって、兵士らは狂気の最中にあった。
彼が抱えた咎、感情、憎しみを原液のまま脳の隙間に流し込まれ、人格そのものが破壊されつつあるのだ。
その中央に、闇を従えた流れ星が着陸する。
濃黒の翼を従えた漆黒の騎士リキテルは巨剣を担ぐと、周りをぐるりと見渡した。
その軽薄というか、飄々とした様子は、元来の彼を想起させるものだった。
異様な存在感を発揮しているというのに、どこか緊張感がない。
「……」
リキテルは、待っている。
何もせず、ただ狂気とも言える背景の中に、物言わぬ彫像と化したかのように。
そして、予兆がしたのだろうか。
彼は漫然とした動作で石畳を踏みしめ、振り返った。
――灰色の狼に跨る、黄金の少女。
それを認めると、リキテルはゆったりと巨剣を構えた。
相対する戦士も、言葉はない。
彼女は理解しているからだ。これ以上言葉による説得に意味はなく、試されているのだと。
リキテルの心は汚れ過ぎた。
容易に他者の言葉を受け入れられる余裕など、差し伸べられた手を取る勇気などとうに失くした。
言葉ではなんとでも言える。
態度で、結果で、真心を以て示さなければ、人の心は動かせない。
リキテルは巨剣を二対、下から上へ、剛力によって振り上げた。
あの大質量を思わせぬほどの、硬質な風切り音。黒い残光を従えた巨剣のそれぞれの切っ先から、鎌鼬――飛ぶ斬撃が飛び出した。
それらはセレティナ達の遥か上を通り抜けていく。
彼女らを狙ってやったものではない。
だとするのならば、どこを……?
「あっ……」
イミティアが、小さく言葉を漏らした。
鎌鼬の行く手には、瓦礫がぎっちりと詰まったウルブドール西門跡。
それらが魔物共の雪崩を堰き止めていた瓦礫の山に吸い込まれると、二本の鋭利な亀裂が滲み出した。
次いで、地ならしの様な振動。
それは、まさしく崩壊の予兆に他ならない。
門が再び風穴と化そうとしているのだ。
脆弱を晒した瓦礫を砕き壊して、再び夥しい数の魔物が攻め入って来る
その崩壊の時間まで……幾許も無い。
「イミティア、下がっていろ」
だからこそ、セレティナは一人で前に出た。
ここからはセレティナとリキテル……そしてオルトゥスとリキテルの領域なのだと、言わんばかりに。
「嫌だね」
しかし狼は首を横へと振る。
獣の瞳に硬い決意を帯びて、イミティアはセレティナの横へと並び立った。
「お、おい……」
「嫌ったら嫌だね。変なところで男気みせようとするなよ、そんなナリしてさぁ」
「しかし」
「お前の言いたいことは分かる。でも、道に迷った仲間がいたらぶん殴ってでも連れて帰るってんなら、オルトゥスの仲間のあいつもあたしにとって無関係じゃない。悪いが、勝手にお節介させてもらうよ」
「イミティア……」
「嫌なら力尽くでもあたしを止めることさね」
英雄の隣に、灰狼が並び立つ。
相対する闇騎士は、両の巨剣を地に突き刺すと、己が感触を確かめるように手を揉んだ。
崩壊する西門。
狂気に晒され続けている兵士達。
地響き、悲鳴、心臓の音。
少女と狼、そして闇に捕らわれた戦士。
エリュゴール王国から発って短くも長く続いた彼らの旅……その終幕は近い。