セレティナという少女
単調に言えば、気持ちの悪い感覚。
体に巡る血液の流れが、まるで一斉に逆流したかのような異色な感触だった。
自身の脳の隙間に、他人の記憶を遠慮なく流し込まれるという異常。
リキテルは、不快感と嘔吐感に苛まれながらも、”それ”から逃れられない。
横を向いても、瞳を閉じても、網膜に直接映像を貼り付けられていて”それ”を拒否することができない。
初めは不可解で、取り留めもない映像のピースが散見されるばかりだった。
しかし、それが他者の記憶であると理解するのに、そう時間は掛からない。
小さな男の子。
リキテルの境遇とそう変わらない、孤児の少年の記憶映像。
継ぎ接ぎに、コマ送りに、断片的に、見せられる。
少年は不撓の精神を持っていた。
様々な逆境を乗り越え、芯を持ち、悲劇的な側面を持ちつつも健全に成長している。
自分とは大違いだと、リキテルは思った。
全てを見たわけではないが、それでも少年はリキテルと同量とも言える闇を抱えているというのに。
少年はやがて大きくなる。
雄々しく、険しく、分厚く。
少年から青年へ……。
彼もリキテルと同様に、剣に生きる男だった。
剣と共に成長し、剣をもって未来を切り開いていく。
注目すべきは、その才能にあった。
堅牢な精神に支えられる類稀な剣の才は、黄金の輝きを放っていた。
驚嘆すべき事実……青年となりつつある少年は、リキテルの実力を遥かに凌いでいる。
不思議とリキテルに驚きはなかった。
強制的に記憶の追体験をさせられることで、少年の力や思いはよく”馴染ん”だ。
彼がどういう力をもっていて、どういう思いが核をなしているのか。
リキテルから言えば少年は、立派な人間だった。
悲劇的な過去を背負い、それだけの才能があるというのに、驕らず、欲しがらず、その力を人の為に奉仕し続けるというのは考えられない。
(甘ったれのいい子ちゃんめ)
児童向けの冒険譚を聞かされているような感覚だった。
そんな都合の良い人間などいるはずがない。
しかし、展開はリキテルの考えを大きく裏切った。
少年から青年へと変わる頃、彼は王国騎士に叙任されることとなり……その精悍な顔つきには、見覚えがあった。ここまでくれば、リキテルは誰の何を見せられているのかをようやく理解することができた。
――英雄オルトゥスの、記憶の一部。
何故そんなものが、というよりも好奇心の方が勝る。
オルトゥスという人間の生涯は、余りにも奉仕的なものだった。
王の忠義に報い、隣人を愛し、国の未来を憂う至高の騎士。
英雄譚の類に尾ひれはついていなかった。
飢える子供の為に裾を泥で汚す事に一切の躊躇が無く、人命を救うとなれば容易く自身の命を賭けることができる精神性。
……あの少女と重なる、とリキテルは思った。
そして、こうも直接追体験させられれば認めなければいけない事柄も出てくる。
本当にオルトゥスは、騎士達はベストを尽くさなかったと言えるのか。
彼らに弟の死の責任を被らせるのは理不尽だと言えないのか。
オルトゥスを隣に感じる今ならばリキテルに理解できるが、オルトゥスという人間に妥協の文字は一切ない。特にそれが、弱者を救う為であるほど。
「……」
リキテルの中の騎士という強者への偶像に罅が入る。
リキテルが”あの時”望んだ英雄は、英雄のままで存在していた。
ただ、自分と弟の前に現れてくれなかっただけだった。
……当たり前だ。
リキテルは、そんなことは薄々理解はできていた。
だが、ならばその怒りの所在はどうすればいい。
弟を殺された現実を、自身が弟を見殺しにした咎を、黙って受け入れろというのか。そう思うと、また別種の怒りが込み上がってくる。
そうしなければ生きてこれなかった。
そうしてこなければ、ここまで強くなれなかった。
現実と虚構が入り混じる。
事実と願望が入り乱れる。
そしてリキテルの混濁した思考を置き去りにして、場面は例の展開を迎える。
満天の星空に、地平線のどこまでも広がる屍の海。
そこに立つのは、白の聖鎧を真紅に染めた、英雄オルトゥスただ一人。
そして彼もまた、力尽きて倒れ伏す。星空に手を翳し、彼は様々を願い、思った。
その温かな願い、最後にそれを思えるだけの英雄性。
万感の思いと、身が凍る様な苦痛……達成感と、それと同量の苦しみの中、オルトゥスはゆったりと死に身を委ねていく。
比類ができぬ程に、人と王……国を憂い続けた男の最後に、リキテルの心も確かに震えたのだ。
この世でたった一人、この時リキテルはオルトゥスの見届け人となった。
願いも思いも、その肌身に感じ、彼はある意味では英雄の”理解者”となってしまったのだ。
英雄の物語は、ここでおしまい。
とにもかくにも、リキテルの心に何かを齎したその物語は――第二章を迎える。
(え……?)
赤子の柔らかな手。
豪奢な屋敷。
美しい母。父と兄。
何事かと、リキテルは眼を白黒させた。
まるきり先程まで見ていたものと違う……なのにそれが英雄オルトゥスの記憶であると、理解して止まないのだ。
映像の中の赤子は成長するに連れ、宝石の様な輝きを帯びていく。
それがオルトゥスと同一であるというのに、姿形は全くことなっている。
美しく、未完成で、耽美的。
黄金の髪に、群青色の瞳。絹の様な滑らかな肌。黄金比で象られる顔は、男性であった頃のものとはまるで似つきもしない。
セレティナという少女は……英雄オルトゥスである。
その事実に気づかされたリキテルは、言葉のひとつも出てこないほどの衝撃を受けたのだ。




