俺はここにいるぞ
リキテルという今や軽薄な意思と化した何かは、その身に宿る力に酔いしれていた。
丹田に鎮座し、己の中に暴れ狂う激情や過去を食らって体を所せましと巡る力の源泉。
吐き出せば吐き出すほど自身に満ちていた負のエネルギーをこそぎ落されるようで、それはもう快感でしかなかった。
死の淵にぶら下がっていた時、ふと現れたモノクロの少女が自らに植え付けた力の種。
黒くて、禍々しい形状をしていた”アレ”。
初めは抗い、死を受け入れようとしていた彼だったが、直ぐにそれの虜となった。
あれほど渇望していた力が、こうも簡単に手に入るなど、思いもしなかったからだ。
体に満ちる万能感。
全てを思い通りにできるだろう全能感。
今まで知らなかった、強者達の景色を彼は見ていた気でいた。
あの英雄オルトゥスが見ていた景色は、あれほどの力を手にしている感情とはこれだったのかと。
なるほど確かに傲慢になるわけだと、リキテルは納得を得ていた。
これほどの力があれば、些細な命など見落とすわけだと。
怒り。
絶望。
納得。
哀しみ。
様々な意思と感情が膨れ上がり、混濁し、リキテルという怪物を今尚育み続けている。
混じり、溶け、膨張し、その末にリキテルという人間性と器が崩れていく。
世界に、強さに、己に失望した彼は、自らに巡るこの力を吐き出し続けることを選んだ。
くだらない世界に生きるより、こうして縮こまっているほうが余程良い。
これだけの力があれば、これだけ世界と遮断されていれば、もう誰にも守ってもらう必要などないし、誰からも奪われることもない。
リキテルは、そうして怪物の一部となることを望んだ。
――しかし、ちらつく。
何か眩しい……太陽?
刺す様に鋭く、そしてどこか暖かい光がリキテルの閉じた瞼を刺激している。
まるで休日の朝にカーテンを開けられ、毛布を引き剥がされている様なあの感覚。
もう少し夜を揺蕩っていたいのに、強引に朝日の下に晒されるあの心地よい不快感。
リキテルは、小さく呻いて、目を開いた。
「……セレティナ?」
自分の声が、久しいという感覚。
まるで日常の一頁を切り取ったような声色だった。
首を傾げているリキテルとは打って変わって、彼の目に映るセレティナの姿は必死なものだった。美しい顔を真っ赤に染め、歯を食いしばってその細腕を自らに差し伸ばしている。
途方もない闇の狭間……リキテルが生み出した怒りの激流に堰き止められたながら、彼女は薄桜の鎧を懸命に煌めかせて藻掻いていた。
「リキテル!」
セレティナはリキテルの開眼、それから声に気が付くと、喜色めいて彼の名前を呼んだ。
その腕を、伸ばし続けながら。闇に、飲まれながら。
◇
リキテルが、何かを呟いた。
セレティナを視認し、何かしらの反応を示したのだ。
希薄ではあるものの、リキテルがまだ人間らしい挙動を見せてくれた。
セレティナの心に小さな希望が芽生えた。
――リキテルは、まだ生きている。
この闇の力の一部にはなってもまだ自分の声が届いたことに、セレティナは心が震えた。
死んではいない。魔に完全に飲まれていない。
まだ、あの魔女の手に落ちてはいない。
ならば、そうはさせない。させるものか。
セレティナは叫んだ。彼の名を。そして自らの名を。
「リキテル! 私だ! セレティナだ! こんなものに飲まれるな! まだ、間に合う!」
益々強さを、硬度を増していく闇の奔流の中を、セレティナはあらん限りの力を振り絞って突き進む。腰まで浸かるほどの重たい泥濘を進むように、僅かな前進が気怠くてきつい。
セレティナは懸命に叫び続ける……が、リキテルがそれ以上の反応を見せることはなかった。寧ろセレティナの姿を認めると、さも興味が無さそうに、まるで顔の周りを飛び回る羽虫を嫌がる様な無関心な嫌悪感をその瞳に宿したのだ。
セレティナじゃ、届かない。
セレティナという存在では、今のリキテルの心を動かすには至らない。
それが良いものであっても、悪いものであっても、反応すら示してはくれないのだ。
セレティナでは役不足。
「ぐ……っ」
セレティナの体が、再び押し戻される。
電撃の様に体を焦がし尽くそうとする闇が、全身を蝕んでいく。
「……リキテル」
セレティナは、ゆっくりと瞳を閉じた。
……諦めた? いや、決してそうではない。
再び開眼する時に、新たな決意をもって”視る”為だ。
「……私を……いや、俺を見ろリキテル・ウィルゲイム」
セレティナはそう呟いて、ゆっくりと瞼を開いた。
群青色の瞳が、火花の様にばちばちと瞬いている。
彼女は目一杯の空気をゆったりと肺に溜めて、溜めて、溜めて――。
「俺を見ろ! リキテル・ウィルゲイム! 俺は、ここにいるぞ!」
――叫ぶ。
そして、セレティナの全身を強烈な光が包んだ。
彼女を覆う薄桜の聖鎧が、天使の光翼が、鋭く、鮮烈に輝きだす。
群青色の瞳はまるで蒼い篝火の様に猛り、黄金に揺れる髪は閃光を纏った。
闇を押し返す程の、懸命な輝き。
この闇は、セレティナに対してリキテルの全てを教えてくれた。
彼の内に昂る感情を、蓄積されていた記憶を、直接脳を貫かれて様々を見ることができた。
……ならば、その逆は?
展開する闇に、セレティナの記憶を、願いを、感情を逆流させれば……?
セレティナは、全てを曝け出すつもりで、これに全てを賭ける。
お前の全てを、全身全霊を賭して向かってこい。
そんなところで蹲っている暇はないぞ。
しっかり目を見開いて、お前の中に燻る怒りを俺に見せてみろ。
お前の目の前にいる少女が、お前が憎んで止まなかった英雄オルトゥスなのだから。
――リキテルは、真の意味で目を覚ました。
その瞳に映る、全ての怒りをぶつけてもいい人間をしかと見る為に。