闇に触れる
リキテルの過去は第141部をご覧ください
例えば、風船。
瓦斯がたっぷり詰まった風船に楊枝をひと刺しすれば、瓦斯は外へと逃れ、風船は割れる。
例えば、満杯のダム。
貯蔵された水の逃げ道を一ヶ所でも作れば、形の無い水は怒涛の勢いでそこから放水される。
溜め込まれたものが、外へと逃げる力。
これは後に応用次第で蒸気機関へと発展する程に強力なものだ。
セレティナが突破した球体もそう。
外殻に光の大剣を突き、割れた隙間から手を伸ばす。
練りに練られ、充満するだけ充満し、閉じ込めている状況に苛立ちをさえ覚えている”闇”の流れは、漸く突破口を見つけることができた。
「う、わっ……っぷ!!!」
当然の帰結。
隙間から、粘着質な”闇”が一斉に飛び出した。
伸ばされた細腕を押し戻し、神聖ささえ感じられる『天使』を、闇が遠慮の欠片もなく穢し始める。
掌から腕へ、腕から肩へと、”闇”の濃厚な感触がセレティナの触覚を伝ってやってくる。
生温く、どろりとしていて、ビリビリと肌を弾いた。はっきり言ってしまえば不快だ。半分液状化した様々な昆虫が肌を這い回るイメージを、彼女の経験は弾き出した。
そして知る。
その”闇”の本質を。
「あ゛っ……!!!」
喉の奥が破れた様な声が、セレティナから発せられた。
”闇”が神経を突き刺し、自身の内に流れ込んでくる。
身を焦がす程の熱。
それから針玉が血管を走り回る様な痛みが、去来した。
「あ゛あ゛……!」
視界は、深淵の”闇”に閉ざされる。
粘質な黒波に呑まれる『天使』は、最後に翼を僅かに動かして、完全に取り込まれた。
「オルトゥス!!」
眼下のイミティアが叫ぶ。
瞳孔が開き、裏返る声は悲壮に満ちていた。
ウルブドールを穢す、狂気の”闇”の濃霧。
その原液ともいえるあれを頭から被って、無事でいれるはずもない。例え英雄が持つ、鋼の心に支えられた体であろうとも。
「ギ、ギギ……ア゛……」
セレティナの意識は、遥か後方へと吹き飛びそうになった。
顔中に苦悶の血管を走らせ、黒眼は消え、しかし食いしばった歯からは抵抗の意図が見える。
セレティナの内に暴れ狂うリキテルが抱える濃厚な”闇”。
途方もない殺意と怒り、それから哀しみが、目まぐるしく彼女の脳を八つ裂きにした。
苦痛。身が焦げる様な苦悶。
セレティナは気が狂いそうになった。
他者の心に刻まれた負荷が己に注ぎ込まれるという、過去のどれとも比べることができない不快に苛まれたからだ。
(痛い。苦しい。暑い。吐き気。寒い。怖い)
様々な負の感情が、目まぐるしくセレティナを取り囲む。他者の痛みが自我の壁にぶち当たり、己の内が砕けそうになる感覚というのは、歴戦の勇者オルトゥスといえどもこれが初めてだった。
それからセレティナの内に発生した、純然たる疑問。
その痛み、この苦悩が、リキテル由来のものであることをセレティナは感じ取っていた。
セレティナは分からなかったし、知らなかった。
リキテルという存在、彼が強さを求める理由、強者との戦闘に疼く性質の由来……。
何も、何も知らなかった。
だけど、その深淵を知る機会が、今まさに訪れている。
リキテルの抱える”闇”が脳に直接垂れ流され、彼の経験と記憶までもがセレティナの神経を焼き焦がそうとしていた。だから分かる。理解が、追い付く。
(これ、は……)
リキテルの過去。
力への執着の理由。
吹き荒ぶ暴風雨の中、セレティナはそれを垣間見た。
凄惨なものだった。
奴隷とも言える貧困の下に産まれ、最愛の弟が魔物に殺されるのを見殺しにしてしまい、その罪の重さから自身の弱さという咎を背負って生きてきた少年の半生を、セレティナは見た。
彼が抱えた後悔、苦悩、強さへの渇望、自己肯定できぬ罪。
幼い体に、余りある過去だった。
その一瞬一瞬を、自身に巡る痛みが、この熱が明確に伝えてくれる。言葉だけでは到底伝わらぬ情報量をその身に感じ、今まさにセレティナはリキテルの過去を追体験しているのだ。
これだけの苦痛に悩んでいたのかと、セレティナは同情を禁じ得ない。
リキテルは、まだ未熟だ。未熟で、未完結であるというのに、良き師にも保護者にも巡り合うことができず、歪んだ感性のままに強さを貪る戦士となってしまった。
セレティナは恥じた。
彼女がオルトゥスとして生きていた時代に、このような孤児を生み出してしまったことを。
羞恥と罪の意識に、英雄の心は如何ともしがたい動揺に捕らわれている。
だが、流れてくる意識は、過去は、それだけじゃなかった。
彼が抱える強者への望み……その最奥に存在する、戦士。
リキテルの際限なく溢れる衝動の奥底に、密接に関わっている一人の男。
(え……?)
その男の面影を、セレティナは知っていた。
白銀の聖鎧。
身の丈程もある巨剣。
どこか鬱屈とした顔のその男は……。
……英雄オルトゥス。
その虚像が、リキテルの心の奥に深く刻み込まれていた。