聖なる
ウルブドール全域が、不気味な静寂に包まれている。
空に浮かぶ、黒い”異物”。
黒々としたそれは瞬きの間に人魔の集合を抉り抜き、この都市の唯一の風穴であった南門を瓦解させた。
風穴を一時的にとは言え塞がれた事で、一先ずはそれ以上の魔物の侵入はない。
戦闘は停滞し、戦場に束の間の安寧が訪れる。
だが、安心していいのだろうか。安堵の暇はあるのだろうか。
それ以上の”脅威”が、再び胎動しているのだから。
「来るぞ!」
兵達が口々に叫ぶ。
その声音を彩るのは途方もない恐怖……それから絶望。
闇の球体は、先程の照射態勢に入りつつあった。
人魔を、あらゆる生命を冥府の底へと運ぶ闇の槍。球体は再び耳を劈く金切声を上げながら、その身に罅を刻み始めている。
「させるか!」
叫ぶのは、セレティナ。
彼女はその背に再び光の翼を展開するや、時計台の頂上から矢の様に飛び立った。
光の尾を従えて真っ直ぐ、ただひたすらに真っ直ぐに闇の深淵へ飛翔する『天使』の様は、まるで神話そのものだ。地上の兵士達は口々に空を駆けるセレティナの背中へ叫ぶ。救いを求める言葉を。
闇は、泣いている。
赤子を産む痛みに悶える母の様に、その罅割れた隙間から『死』そのものを吐き零し始めていた。
そして再び闇の槍が、飛び出した。
闇の槍は義勇兵が集う西門前に、猛進する。
が、その前には光の翼を一際に輝かせるセレティナの姿。彼女は諸手を広げて、その先へ行かせはしないと闇の槍の行く手を阻む。
しかしあの威力にセレティナの虚弱な体など、紙切れも同然。
故に叫ぶ。彼女が最も信頼する、魔法士の名を。
「イミティア!」
時計台の屋根。
最も空に近いその場所で、イミティアは敬虔な信者の様に片膝を着いて跪き、両手を組んで祈る様に魔法名を紡ぎ出した。
『聖より聖なる守護明光』
イミティアの薄い桜色の唇から、煌煌とした光が吹き抜ける。
それはまるで、彼女が発した魔法名……言葉そのものが、視覚化された様だった。
温かく、それでいて何か神聖という文字を想起させる柔らかな光。その光は天高く在るセレティナの元へ殺到し、細身の四肢を絡め取る。
セレティナの体が、眩く光り始めた。
『天使』は更なる進化を始め、やがて――。
――闇の槍が、直撃した。
闇と光。
相反する存在。
闇は光を食い潰そうと力を強め、光はそれに飲まれまいと更に輝きを増した。
まさに『聖戦』と銘打つに相応しい光景が、そこに広がる。
「……」
イミティアは伏した視線を、やがてセレティナへと向ける。
彼女の知るセレティナは、オルトゥスは、こんな所でくたばる器ではない。
「弾き返せぇ!」
空に吠える。
光はそれに連動する様に輝きを増し――遂には闇の槍の軌道を大きく弾いた。
弾かれた槍は上方へと軌道を変え、遥かな天空で炸裂する。
そして地上は……色めき立つ。
セレティナの身に宿る白光が、次第に威を弱め、彼女のシルエットを浮かび上がらせた。
光の中から、薄桜色の戦士――セレティナが現れた。
淡く明滅する光の塊――否、右手に抱える光の大盾から立ち上る闇の瘴気は、先程の槍の防御を如実に証明している。左手に握る『エリュティニアス』を覆う様に展開される光は大剣を模していた。セレティナに纏わる薄桜の光は、見事な全身鎧と成りてその身を守護している。
大盾も大剣も、全身鎧も、淡く透けては桜色に明滅を繰り返し、その神聖な威容を誇示している。そしてその腰から大きく左右に伸びる二対の光の翼。頭鎧から覗く、黄金比で象られた顔。
『天使』
『聖騎士』
『女神』
例えようは、幾らでもある。
しかしこの光景。
この神話の一部を切り取った様な目も覚める光景を、地上より見上げる兵士達は決して忘れる事はないだろう。子から孫、孫から曾孫へと語り継がれる帝国の新たな天使神話を、体感しているのだから。
闇に敢然と立ち塞がるセレティナのその姿は、まさに高潔そのものだった。
華麗で、苛烈。美しく、厳しく。
未だ幼さの残る顔に、どれだけの経験を積めばあのような表情ができるのか。
セレティナは薄桜の光を纏い、厳しく闇を見据える。
否、彼女が見据えているのは闇ではなく……その中にある実体。磔の様に闇の球体に囚われた、リキテル・ウィルゲイムだ。
しかしセレティナに、余裕の表情は一切ない。
身に纏う守護魔法はイミティアが残り少ない魔力を振り絞ったものであり、時間制限がある。
もって六十秒程度だろう。
しかし最上級に位置する魔法を顕現できる時間としては、決して短くはない。
セレティナは意を決すると翼を広げ、闇の球体へ、その懐へと滑空する。
薄桜、それから翼の白光の尾を引きながら帝国の空を駆る姿は、まるで流星だ。
「リキテル!」
叫び、速度をぐんぐんと上げる。
速く、早く、疾く。
巨大な闇の球体は、『天使』が近づくにつれ、拒否反応を示すかの様に鳴動した。
周囲の光を巻き込み、金切声を上げ、闇を空に垂らす。まるで昆虫の接近を嫌がる童女の様に、その反応は顕著だった。
だから、次の行動は迎撃であると決まっている。
闇は何百本もの“槍”を精製すると、その全てをセレティナへと差し向けた。
この戦争が後に『聖戦』として語られる所以の戦いが、始まった。