激戦の果て
達人同士の命の奪り合いとなると、全ての一手に濃厚な意思がある。とにかく技が当たればいいとか、相手の手を見てから一々対応する、などとは既にお笑いの境地。互いの意識は既に三手以上先にあり、常に予測と修正を行いながら死線を潜り抜けなければならない。セレティナと仮面の男は互いの間に幾つもの火花を散らし、呼吸ひとつの乱れで首が飛びかねない熾烈な争いを繰り広げていた。
(体が重い……)
セレティナの疲労は濃くなるばかりだ。
先程からほぼ無呼吸……息を継ぐ間もない運動は脆弱な体には余りにも堪える。筋力量もなければ、肺活量も当然少ない。セレティナは胃の腑からせり上がる熱いものを何とか押し留めながら、仮面の男の刃を大きく弾いた。
「……」
仮面の男は軽やかなステップで態勢を整えると、呼吸一つ乱さずに再びセレティナの懐に飛び込んでいく。
「こ、の……ッ!」
小柄な体躯から操られる『エリュティニアス』は速い。しかし仮面の男の連撃はそれよりも更に上を行き始めている。セレティナの薄絹の様な肌は一手毎に浅く破れ、頬、首筋、腕の至る所に裂傷が見え始めている。
セレティナは仮面の男の追撃から逃れる様に『エリュティニアス』を大きく薙ぐと、その勢いのまま手近な倉庫の中へと窓を突き破って逃れた。弾ける硝子の音。セレティナは転がりながら体を弾き起こすが勢いを殺しきれず、尻餅を突いた。
「痛っ……」
小ぶりな尻を労わる間もない。
仮面の男は緩慢な動作で割れた窓を跨ぐと、両のナイフを合わせて掻き鳴らした。
「待て」
ゆっくりと身を起こしながら、セレティナは言葉で制した。待てというただ一言。それが仮面の男に届いているのか定かではないが、彼は何も言わずナイフを掌の中で弄んでいる。
広い空間にセレティナのソプラノはよく響いた。
埃が舞う倉庫には幾つもの木箱が整然と積まれており、埃のくぐもった臭いとはまた別に古びた木の臭いと柑橘系の果実の香りが充満している。恐らく木箱の中身はそういった果実がぎっちりと詰まっているのだろう。
けほけほと喉を鳴らしながらセレティナは漸く身を起こすと、『エリュティニアス』を両手で握り込んだ。如何に軽さに特化した宝剣といえど、もう彼女には片手でそれを操る力は残されていない。頬を伝う汗を肩口で拭っていると、仮面の男は頃合いだと言わんばかりに再び歩み始めた。
「待てというに」
セレティナが悪態を吐くと同時に、仮面の男は加速する。右方左方から迫りくるナイフを、セレティナが転がりながら往なすと、逃がされた斬撃は容易く木箱を二つに分かつ。中からゴロゴロと薄緑色の果実が床に散乱し、倉庫一杯に甘酸っぱい香りが広がった。
埃に塗れるセレティナの上からは容赦の無い凶撃が降り注ぐ。セレティナは『エリュティニアス』を縦横無尽に走らせながら、埃だらけの木床を滑る様に転がり逃れる。
白装束はくすみ、黄金に輝く髪はその美麗さに翳りを見せている。桃色の唇は青みを帯び、体力の底がありありと見え始めたセレティナはしかし、追い込まれた。
背中に大きな衝撃を感じると、肺から酸素が吐き出された。逃れ逃れて木箱の山へと背をぶつけたセレティナにもう逃げ場はない。
一瞬の動揺……それを仮面の男が見逃す筈もない。仮面の男はセレティナの『エリュティニアス』を大きく、鋭く蹴り上げる。くるくると宝剣の剣身が宙に煌めき、一瞬の空白が生まれる。
得物が弾かれ、セレティナは丸腰だ。ヒュッ……と彼女の喉が鳴った時、既に仮面の男が振りかざしたナイフは目前だった。
「うっ!?」
声が堪らず漏れた。
――しかし漏れたのは、仮面の男の方だった。
セレティナはナイフを握る仮面の男の手首に這わせるように腕を伸ばすと、その勢いを躱す様に男を投げ飛ばしたのだ。これは彼女の力によるもの……では勿論なく、所謂合気。遥か東に伝わるこの技術は、前世に流れの武闘家に教えてもらったものだ。実戦レベルで会得できた代物ではなく、これが成功したのはあくまでもマグレ。しかしそのマグレを土壇場で引き起こすことこそに、セレティナの武に於ける天性的なセンスが光ったと言えよう。
仮面の男がセレティナと入れ替わる様に木箱の山へと頭から突っ込み、山は雪崩を起こした。上背のある男でさえ見上げる程に積まれた木箱は、落下するだけで常人など簡単に圧死させてしまう。
しかし仮面の男は鋭く身を起こすと、両のナイフに渾身の力を溜め、それらの一切を切り飛ばした。鮮やかな剣撃はまるで結界だ。男への落下を自ら避けるように、木箱はバラバラに砕けて四方八方へ逃れていく。
しかし、その剣撃の結界を食い破ろうと仮面の男に勇猛に飛びかかる少女がいた。セレティナが猛々しく吠えながら、『エリュティニアス』の柄を逆手に握って突き下ろすのだ。
愚直に見える一撃。しかし面食らった仮面の男の思考は、ほんの一瞬遅れを取る。しかしほんの僅かでも遅れをとったのなら、セレティナの剣が勝る。
仮面の男のナイフを弾き飛ばすと、セレティナは錐揉みに落下しながら男の体に組みついた。それと同時に、仮面の男の肩口に深々と『エリュティニアス』を突き刺す。黒々とした血が飛び、セレティナの白肌に付着する。しかし彼女は意にも介さずギリギリと柄を握り込むと、仮面の男を床に釘付けにする様に更に深く突き刺した。
「はぁ……はぁ……」
組み伏せた仮面の男を激しく睨み据えながら、セレティナは漸く呼吸らしい呼吸ができた。呼気は震え、限界が近かったことを明確に指し示してる。
「目を覚ませ」
そして静かに、鋭く、濁すことなくセレティナは言葉を射掛ける。
それと同時に、男の仮面がずるりと横へ流れる。からころと軽快な音を奏でて転がる仮面は、まるで魔女の嘲笑の様でセレティナは腹立たしく思えた。
「リキテル」
仮面の男――リキテル・ウィルゲイムは、憤怒の形相でセレティナを睨みつけている。