対峙
明確な殺意が、肌を弾く。
思わずセレティナの目が細み、血の流れが僅かに遅くなった。
彼女に向けられたそれは、魔物が本能的に持つ人間への殺意の類では決してない。何か明瞭な、知的生命体が持つ確固たる憎悪に基づいた悪辣な殺意なのだ。
セレティナがオルトゥスとして生きていた時、その立場の所為から負の感情に晒される機会はそう少なくなかった。嫉妬、嘲り、懐疑、それから殺意。実際に手段を選ばず殺されそうになったことは何度もあったし、オルトゥスはそれらを容易く跳ね返してきた。
しかしここまでの殺意……あるいは、敵意を向けられたことなど無かった。
「いや……」
セレティナは小さく横に首を振る。
この強烈で異質な殺意を感じたのは、一度目じゃない。それはいつだったか、セレティナは思い出そうとして――思考を止めた。
死の匂い。
セレティナを真っ直ぐに見据えて、ひたひたと歩み寄る仮面の男にはその匂いが濃くこびりついている。人魔に境は無く、その両方の血液を両の手に握る黒いナイフから滴らせていた。
「……」
仮面の男は、立ち止まる。
漆黒のロングブーツ。血管の様なグロテスクな模様があしらわれた、線の出る薄い膜の様な黒衣を身に纏い、ボロボロの腰布は静かに風に揺れていた。髪は白く、僅かに覗く肌は嫌に紫を帯びた褐色。仮面には笑顔が張りつけられ、男の異質な雰囲気を更に煽るようだった。
「一体お前は、その手で何人殺したんだ」
セレティナは男が通ってきた道に転がるいくつもの死体を見て、問う。
仮面の男は、動かない。
それと同時に動揺……心が動いた気配も感じられない。
ただ止めどなく溢れる殺気が、周囲の空気を叩いている。
セレティナとて何か返事を期待していたわけじゃない。そもそもがあの男に理性があるのかすら分からないのだから。
『とっておきの子』と称したディセントラの微笑がセレティナの脳裏に浮かびあがる――が、そんな暇は無い。
「うっ!?」
仰け反ったセレティナの額の僅か上を、黒ナイフが鋭く滑る。問答無用だった。
予備動作など殆ど無く、仮面の男は躊躇なく絶死の一撃をセレティナにくれたのだ。しかし彼の得物は双対。右が来れば次は左が来る。セレティナは虚を突かれ、完全に体幹のバランスを失ったままエリュティニアスを操った。
ここまで迫られれば、完全に黒ナイフの間合いだ。
しかしセレティナはその不利を全く感じさせぬほどの早業で仮面の男の二撃目を往なした。仰け反った体制の為殆ど視界に頼れず、予測と経験……それから死線の中で展開される強者の勘だけで、だ。
大きく刃の軌道を逸らされた仮面の男は逆に無防備を晒すが、次は頭が出る。
後方にたたらを踏むセレティナの額に強烈な頭突きが刺さり、頭蓋同士が衝突する重々しい音が響いた。
「っつぅ……!」
セレティナは目端に涙を浮かべながら男の胸板を蹴るとその勢いのまま飛び上がり、宙で反転しながら距離を取った。
(……強い)
着地後、息を整えながらセレティナは額から唇まで落ちる血を舐めた。
エリュティニアスの剣身を伝って掌に帰る様々な情報から、セレティナは仮面の男を強敵と認めざるを得ない。一瞬でも意識が鈍れば、次の瞬間には自分の首が無様に地面を転がっているだろうとも。
「お前は人間か、それとも魔物の味方か、どっちだ」
現在も戦況は目まぐるしく変わっている。
先の攻防で戦線より少し外れたところまで来てしまってはいるが、今こうしている最中も沢山の戦士が命を落としているのだ。正直、この男に多くの時間を掛けるつもりはない。
その男の正体が、何であれ。
「……」
仮面の男は答えない。
ただ返すのは、咽かえる程の殺気のみ。
「まあ、そうなるよな」
額の血を拭うと、セレティナはエリュティニアスを正眼に構える。
というのも彼女自身、仮面の男が何かしらの反応を見せるとは思わなかったからだ。
(この男の剣には怖れや躊躇……それ以上に殺意以外の匂いが無い)
如何に洗練された達人であっても、無心で剣を振るというのは難しいことだ。
剣に真摯に向き合い極致と言える領域に達しても、その使い手が人間であるならば僅かにその使い手らしさや心というのがそこには残るはず。……が、仮面の男の剣には人間臭さが残ってはいない。
ならば仮面の中は人外……人為らざる魔物か、或いは……。
(洗脳の類……改造? それとも、死体を媒介に新しく創造した玩具か何かなのか……彼にまだ心は残っているのだろうか)
チキ……と、エリュティニアスの鍔が小さく鳴く。
迷っている暇は、無い。ここは戦場で、相対する仮面の男は自分のみならずウルブドールの兵士を殺し尽す敵なのだから。
セレティナは自分の心に言い聞かせると、群青色の瞳の色を一層に強め、仮面の男を睨み据えた。
「いくぞ」
呟きにも近い決心の言葉は、仮面の男には聞こえていないのだろう。
彼はセレティナの一息の間も待たずに、次の瞬間には地を蹴っていた。