戸を叩く絶望
「始まったみたいだな」
鉛色の空を見上げ、精悍な軍馬に跨るオーバンス将軍はぼやく様に呟いた。
顎鬚を触る彼の表情は、これから地獄の只中を邁進していくというのに軽い。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな! 僕の都市を贄にするんだ。安全に送り届けてもらわないと割に合わないだからな!」
豪奢な馬車の窓から顔を覗かせているのはウルブドールの都市長エルバロだ。
彼は興奮と緊張の極致といった顔で、オーバンスを怒鳴りつける。額に尋常でない程の汗を浮かべ、唾を飛ばす彼は余りにも必死だ。
オーバンスは肩を竦めると、怒れる子供を宥めるかの軽々さで応える。
「さあな。何せ化け物共の海を泳いで渡ろうというのだ。完全な命の保証はできんよ」
「なっ……! お、お前! こ、こちらにいれば安全だと言ったではないか!」
「比較的、だ。私の側にいるのが一番安全というのは揺るがないがね。何ならあの『方舟』で引き籠もっているがいいさ」
あっけらかんと言ってのけるオーバンスに、エルバロは言葉に詰まる。
あの堅牢豪胆な飛行船より、オーバンスは自分の側が最も安全だと言ってのけたから彼はわざわざ馬車を用意させたのだ。英雄に比類する戦力に守られる為に。あの『方舟』も、万が一足を絡め取られれば食われるしかない。だから小回りが効き、最高戦力の側に控えられるこの馬車が脱出には最も安全なのだ。
しかしエルバロは、親指の爪を齧りながらオーバンスに問う。
「おい、万が一奴らが『聖戦』で勝利するということは有りえないのか? あのティークとかいう冒険者は貴方に匹敵する程なのだろう?」
その問いに、オーバンスは馬鹿馬鹿しく笑ってのけた。
「おいおい、まだ諦めていなかったのかね。無理だ。彼らは死ぬし、この都市も死ぬ。跡形も無くな」
「……クソ」
「ティーク君とイミティアか……惜しい戦士を失くしたというもの」
「彼らはギリギリで離脱すると言っていたが?」
「はは。それこそ甘言だ。無理だな。彼らは死ぬよ。何より……」
オーバンスはそこまで言って、目を細める。
「この扉が開いた景色を見れば、彼らが言っていたことが如何に悠長であったか思い知るはずだ」
◇
――開門ッ!!!
セレティナの号令と共に、まずは都市と直接接している内門が開く。ゴリゴリと悲鳴を上げながら、ウルブドールは自ら急所を晒していくのだ。
兵士達は叫ぶ。
地を鳴らし、拳を掲げ、恐怖と絶望を遠ざける様に。高らかに、己の命を燃やすが如く。
そして、内門から伸びた橋の先にある外門が、とうとう音を上げる。
蟻の一匹も通さぬと硬く閉じられた門は隙をさらけ出した。
「お、おい……」
誰が言ったか。
しかしその戸惑った声音に、全てが詰まっていた。
僅かに開かれた門の小さな隙間から、大嵐の日に家の窓を開けたが如く、魔物共が互いを蹴散らしながら割り込んできたのだ。続々、続々と。瞬きの間にその数、数百、数千……あの門が完全に開け放たれた時、どれだけの魔物がウルブドールに踏み入ろうとするのか。兵士達は考えるだけで、吐き気を催した。
「怯むなッ! 射掛けよ!」
遥か後方。怯む兵の後頭部を殴るかのようなググガンの号令が飛ぶ。
硬直していた兵士達はハッと息を飲んでは、引き絞った弓から火矢を放った。
幾百と放たれた矢は紅蓮を纏いながら黒の軍勢に殺到し、命中。
矢に肉を食い破られたものから転げ回り、後に続く者を巻き込んで混乱を招く。
それから、橋にはあらかじめ細工がしてあるのだ。ツンと鼻を突くその香り――油だ。
ドウッ!!! と、橋全域が炎の海と化す。
煌煌と燃え盛る紅蓮は、遥か遠くにあってもその熱波で肌を叩いた。
油、酒、よく燃えそうな藁や衣類……南方から運び込まれたと言われる貴重な炸裂薬まで、火の贄になりそうなものは全てあそこに詰まっている。
「……」
セレティナは炎の柱に目を細めながら、翼を翻して台を降り立った。
光の翼は消滅し、空へと掻き消え、そんな彼女の傍らに寄り添うように旧友が並び立つ。
「始まったな」
凡そ呟くような声量でもセレティナはしっかりと聞き取れ、小さく頷いた。
炎の柱を踏み倒す様に、次々と魔物共は紅蓮を突破する。
被害が無い訳では無かろうが、それ以上に数が多い。魔物は屍を蹴散らしながら、歩みを止めることは無かった。行軍する足音だけでも鼓膜が弾けそうなほどに痛い。
「魔法隊! 前へ!」
ググガンの更なる怒号が飛ぶ。
弓兵と変わる様にローブに身を包んだ兵が前へと踊りだし、次々と魔法を解き放った。
雷、炎、氷……種々様々な猛威が、魔物の形成した大波とぶつかる……が、それも焼け石に水。後方から矢や、投石器によって大石が飛び交うが、一匹一匹潰したところで、それも本当に意味があるのかと問いたいほどだ。
――魔物が、とうとう大橋を超えてウルブドールに雪崩れこんできた。
蟻の巣に水を流し込むが如く。
多勢に無勢。この時、ここに集った義勇の戦士達の何人もが心を折られ、こう思った。
自分がここにいて、何が変わるのかと。
濁流に揉まれる砂粒に過ぎないのではないのかと。
しかし現実は、待ってはくれない。
死地はもう、そこにあるのだから。
「突撃―――ッ!!!!」
ググガンのその雄叫びは、無情にも絶望した戦士達の背中を押すには至らない。
彼らは、既に絶望の只中にあった。