開戦
鐘の音が重たく、ウルブドールの街に鳴り響く。
それはこの街に住まう市民であれば余程聞き慣れたものであるが、この日この瞬間に於いては、その鐘の音の意味するところは違う。老いも若いも、男も女も、誰もがその聞き慣れた音色に身を硬直している。
どこからかはどよめきの様なものが生まれ、またどこからかは嗚咽や吐瀉する様な音さえ聞こえてくる。
――三時を示す重い鐘の音は、開戦の合図。
この『聖戦』に於いて全ての準備が整い、全てを投げ出す時が来たのだ。
やがて兵士達が集められた西門は開け放たれ、魔物共は一斉にこのウルブドールに雪崩れこんでくるだろう。真水の注がれたコップに濃厚な黒の染料を垂らしたが如く、この街は黒く塗りつぶされる。
重たく、腹の腑に響く様な鐘の音に、誰かが小さくヒッと声を漏らした。
一人だけではない。同時に、何人もだ。
兵士達は、この後に及んで及び腰になり始めた。
悲鳴、嗚咽……それらは小さく伝播していき、それを咎めるように怒声を漏らす者、己の恐怖を塗りつぶす様に逃げ腰の兵士に乱暴を振るう者……反応はそれぞれだが、首に当てられた死神の鎌の冷たさに、兵士達は平常心を保てずにいる。
それも無理からぬことだ。
多くの戦を乗り越えた戦士とて、この時は心に堪えるものがある。寧ろ平然と精神のバランスを保てる者は頭の螺子が一つ外れてるか、常人には到達できぬ程に心が鍛えられた者……また、本当の意味で命を投げ打つ覚悟ができた者だけだろう。
この『聖戦』の為に集められた兵士の殆どは、平民。義勇兵なのだ。
戦士の心得など無く、ただひたすらに家族の為、愛する者の為に、震えながらこの場に立っている者達。覚悟はできても、これから化け物に蹂躙されると分かっていて恐怖しないものなどいない。
小さなざわめきは、やがて暴動と見紛う程に拡大していく。
「やはりこうなりますか……」
ググガンは小さく感想を漏らすと、己の禿げ上がった額をぴしゃりと叩いた。
彼は訓練された兵を率いることはあっても、鍬しか持ったことのない農民を率いたことなどない。
義勇の兵士達には賞賛を送りたいところではあったが、この様に及び腰になられては全軍の士気に関わる。
「……頼みますよ」
だからこそ、彼が――彼女がいて良かった。
「あれは……」
誰かがそう零して、誰もが“それ”を見る。
遠く、高く、鉛色の曇天に浮かぶ、一人の『天使』。
背……腰の辺りから伸びた見事な白翼は、まるで女神が迷える子羊に抱擁の手を差し伸べているようだ。
「あれは……天使様……!」
ウルブドールにて、天使を知らぬ者などいない。
南門での防衛戦……それから『上級』との戦闘で二度も奇跡を起こした、白翼の天使。
兵士達は譫言の様に天使だ、とセレティナの姿を見、呟いた。
絶望に、三度舞い降りる天使の奇跡。
「聞きなさい! 帝国に生きる気高き戦士達よ!」
高らかに、ハリのある声でセレティナは叫ぶ。
翼を操り、降りるのは門前に不自然に誂えられた高台。セレティナが彼らを鼓舞する為に用意された、特設の台だ。
「私と共に戦う、誇り高き勇者達よ!」
セレティナは右手に掲げる、彼女の背丈より一回りも大きな旗の石突を台に穿った。
高く、鋭く音が響き、深紅の無地の旗布がはためいた。
意思の強さを思わせる群青色の瞳。
何よりも尊く煌めく黄金の髪。
そして、天上の美に至る顔。
深紅の旗を振りかざすその姿は、ギルダム神話に登場する天使エリオが重なってならない。
かの天使は深紅の旗を振りかざして大軍を率い、悪魔を祓ったとされる。
その姿に、ギルダム帝国に生きる誰もが感嘆の声を漏らした。
先程の嗚咽とは違う、救いに満ちた嗚咽も聞こえてくる。
セレティナは、敢えて名乗らない。
名乗ることで可能性を狭めないのだ。
自らを如何様に捉えてもらっても構わない。
『天使』と呼ぶならそう呼ぶがいいと、兵士達を勇気付ける為に道化を買って出た。
「誇りなさい! その震え、その涙、その怒りは、貴方達が守りたかった者達のそれを一身に肩代わりしているのだと! その恐怖こそ、その恐怖を抱えて尚ここに立つことのできることこそが真実の愛だと知りなさい!」
「見せてやろう! 我らの大切なものを奪おうとする黒き魑魅魍魎共に、正義の鉄槌を! 人間の底力を! 人の愛を!」
カン! カン! と、セレティナは旗の石突を台に打ち付ける。何度も、何度も、一定の間隔を置いて。
「神は見てくださっている! 戦いの末、ここに集った魂達をよくぞやったと褒めそやしてくれるだろう! 正義は彼奴らと我ら、どちらに在るかなど瞭然! 顔を上げ、胸を張り、誇りなさい! 我らは、貴方達は、紛れもない勇者なのだから!」
勇気が、膨れ上がる。
恐怖より、自らの誇らしさが湧きおこる。
かの『天使』は見捨てることなく、共に戦い、彼らの勇気を認めてくれている。
セレティナの旗を穿つ音に合わせ、男達は、戦士達は、靴を鳴らし始める。
始めは頼りなく、しかしやがて、力強く。
「地を鳴らせ! 我らは此処にいる! 朽ちて尚、帝国の子々孫々に脈々と受け継がれるその誇りを、高らかに証明せよ!」
泣き崩れていた者も、緊張故に嘔吐していた者も、皆顔つきが変わる。変わり始めている。
隣り合う兵士の肩を叩き、顔を真っ赤にして叫び合い、力強く、地を踏み鳴らす。
やがて地鳴りの様な戦士達の軍靴の音は、ウルブドール全域に届くのではないかとまでに
「声を上げろ! 我らは此処にいた! 南門の『方舟』にて脱出を待つ家族達に、その力強さを証明せよ!」
「これは紛う事無き『聖戦』だ! 恐れることなど、何一つとして有りはしない! 正義は、我らに在り!」
そして、セレティナは大きく息を吸い込み――
「開門ッ!!!!」
――ウルブドール西門の号令を掛けた。
文字通り、『方舟』の生死を掛けた『聖戦』が、開戦した。