勇者達
次の日。
セレティナは太陽が昇るよりも早く目が覚めた。疲れの抜けない鉛の様な体を引きずる様にしてベッドから抜け出ると、毛布を従えたままに姿見を睨む。
「……」
白雪然とした肌に隈やむくみなどは決してない。寧ろ美の頂きに至るセレティナの肌は充分な睡眠を取らずとも艶やかだ。
しかし本人にしか分からない程度の些細な変化はある。
僅かに唇の桃色は薄らぎ、瞼はその重さを誇示するかのようにぱちくりとしたセレティナの目を閉ざそうと重力に従って降りたがるのだ。
セレティナは自身の頬を少し強く抓った。じんとした痛みが眠気を刺し、群青色の瞳に僅かに涙が浮かび上がる。
「……リキテル」
零した名は、昨晩セレティナが対峙した謎の仮面の男のものだった。
顔を見たわけではないし、あの男がそうと決まったわけではない。
しかしセレティナは彼をリキテルだとしか思えなかった。
だがあの男がリキテルであるならば、疑問がいくつも湧いてはセレティナの心を切迫していく。
何故、セレティナに斬りかかってきたのか。
何故、無事だったのならひと声かけなかったのか。
何故、あの面妖な格好をしているのか。
何故、何故、何故――。
「さっぱりわからない」
分かる訳もない。
決戦を前に、心にしこりを作っていては先が思いやられる。
セレティナは浅く息を吐くと、リキテルの件を一旦胸の奥に仕舞いこむことを決めた。
奥の、奥へと。
その腰に提げた剣の冴えが濁らない最奥へと。
「……朝、か」
そうしていると、漸く朝がやってきた。
夜の浸す様な漆黒は朝日の橙を受け、じんわりとした紫へと変わり始めている。
セレティナが窓を開け放つと、朝とも夜とも取れぬ硬質な冷気が部屋に飛び込み、遠くからの鳥の囀りが僅かに彼女の小さな耳の鼓膜を揺らした。
朝が、来た。
――セレティナとして迎えるのが最後となるかもしれない朝が。
◇◇◇
街は、硬質な喧騒を帯びている。
僅かな予断も許さない状況であることを、誰もが理解しているからだ。
兵も、農奴も、世捨て人でさえ。
重たい雑踏の音と、時折の怒号……それに応える様に赤子が泣き、空気が更に粘度を増していく。
不安と緊張を湛えた人々の表情は、仄暗い。
よもや断頭台へと歩かされているのではないか、と錯覚してしまう程だ。
彼らが向かう先は、イミティア・ベルベットの飛行船――いや、『方舟』の待つウルブドールの西門だ。行儀よくとは言えないが、兵達に律された彼らは粛々と『方舟』へと重たく歩いていく。
「今ならまだ間に合うぞ」
高く聳える時計台の展望台……白装束に身を包んだセレティナは、人々が形成した川の様な流れを見下ろしながら語りかける。
言葉を受けるのは、勿論彼女の前世を知る旧友イミティア・ベルベットだ。
「腹を決めた戦士に対してその台詞は気が利かないな」
イミティアは革の水袋で喉を潤すと、セレティナの言葉を一笑に付した。
イミティアの意思は固い。こうなっては梃子でも動かないだろう。
しかしセレティナは友として……または親心のようなものからか、イミティアの身を案じずにはいられない。
「そうか……」
口では肯定していても、セレティナの態度は些かそそっかしいものだった。
仮にイミティアが船に乗ると心変わりしてくれたのなら、どれだけ彼女の表情が華やぐことだろうか。
しかしイミティアの意思は変わる事など有りはしない。
銀色の狼耳を揺らしながら短剣の剣身を確かめているイミティアの横顔に、迷いというものはない。
死なば諸共。否、必ず共に生きて帰ると約束したのだから、往生際が悪いのはセレティナの方だ。
「そろそろ行くぞ」
懐中時計をポケットに捻じ込んで、イミティアは小さく告げる。
「……ああ」
セレティナはそれに浅く頷いて、観念したように友の背中に着いていく。
前世では余りにも体格が違い過ぎた友の背中は、今は自身と同じくらいだ。
自分の方が小さくなったのだと理解はできても、今はその頼もしさが少し有り難い。
決戦……ウルブドールの開門まで、あと十時間。
セレティナは人々の顔をその瞳に焼き付ける。
自分が命を賭して護ると誓った人々達だ。
「イミティア」
「ん?」
「必ず、守ろう」
「……ああ」
「そして私達も必ず……」
「……ああ」
互いの言葉は、少ない。
しかし、彼女らにとってみればそれは多すぎるくらいだ。
自然と握られた両者の手は、固く結ばれていた。
それだけで、意思の確認など十分なのだから。
歩くこと三十分。
日が下り始める頃に開け放たれ地獄と化すであろうウルブドールの東の大門は、異様な雰囲気に包まれていた。
先程見送っていた人々とは別種の、異様な熱さと静けさ。
全身を武装した兵士達は、泣きそうにも、今にも激怒しそうな表情を浮かべているが、彼らはただひたすらに沈黙を守っている。
門の外にびっしりと蔓延っているだろう魔物が怖いのか、己の内に考えを巡らせているのかは分からないが、彼らはただひたすらに沈黙を保ち続けている。
「……凄いな」
ぽつり、と隣でイミティアが零す。
凄い、とは漠然とした感想だが、セレティナも万感の思いでそれに頷いた。
ここに集った二千の兵士達は、皆命を捨てた者達なのだ。
家族の為、国の為……『方舟』を外へと逃すために集った、義勇の勇者達。
セレティナは、彼らに敬意を示さずにはいられない。
彼らと共に戦えることを誇らしく思えてならない。
セレティナは口を一文字に引き結ぶと、より一層に気を引き締めて歩み始めた。