竜と騎士
セレティナは二頭の竜に歩み寄りつつ、懐かしい光景に心打たれていた。
ソームとゴダラ。美しい白と黒の竜は、以前見たときよりも色艶に更に磨きが掛かっている様に思える。
セレティナは竜という種族が好きだった。気高く、孤高。それでいて強くて華麗だ。
人々から畏怖と尊敬という対極にある感情を同時に向けられる生き物などそうはない。
『竜』でありたいと、騎士を目指していた頃は思ったものだ。
それが如何に浅はかな考えだったか、後に思い知るのだが。
「……」
セレティナはくすりと笑みを浮かべる。懐かしい記憶と感情に囚われるなど、今となってはそうそうないことなのだから。
――故に一拍、遅れが生じたのだろう。
セレティナの視界を塗りつぶす様に、途方も無く大きな“尾”が眼前に迫っていた。
「ぎゃあ!!」
誰かが遠くで叫んだ。恐らくガブドゥの声だろう。
しかし叫んだのは一人ではない。事態を見送っていた誰もが情けない悲鳴を上げていた。
黒竜のゴダラの尾に引き潰された。
誰もがそう思っていた。
「……危ないところだった……」
セレティナは、生きていた。
迫りくる尾に対して回避行動は既に取れなかった。どこにも隠れる場所も無かったというのに。
ならばどうしたかと言えば、セレティナは聳える様な尾を見事駆けあがって見せたのだ。壁走りの要領で尾の横腹を駆けあがり、殺しきれなかった暴威を錐揉み回転しながら自ら弾き飛ぶ事で御して見せ――着地。
竜石を小脇に抱えたままのセレティナは、着地硬直を感じさせぬ、流れる様な身の起こしで態勢を整えると、ゴダラをひと睨みした。
(しまった……浮かれていた。竜は見知った相手にしか心許さぬ気高い生き物。不用意に近づいたのは私のミスだ。愚か者め……そうだ、私は今オルトゥスではないんだぞ)
セレティナは自らがいかに浅慮だったかを呪った。
そう、懐かしさ故に自分が今はセレティナであると忘れてしまっていたのだ。
黒竜ゴダラの気性の荒さは予てより知っている。
だというのに迂闊にも何の準備も無く近寄ってしまったのは余りに迂闊だった。
セレティナは口の中の砂利を吐き出すと、大きく見上げて吠える。
「気高き黒竜ゴダラよ! 聞け! 私は貴女の敵ではない! イミティア・ベルベットの使いとして貴女に竜石を献上しに参った者だ!」
ゴダラは喉奥をグルグルと煮えさせながら、頭をゆらりゆらりと揺らしている。どうにも寝起きで頭が回っていない……そんな印象を受けるが。
「くそ……!」
セレティナはとうとう竜石を放り捨てた。
ゴダラの口腔が、淡く熱を帯び始めたからだ。
「ゴダラが『吐息』を吐くぞおおおお!! 逃げろおおおおお!!」
遠くで、誰かがそう叫んだ。
既に辺りの空気は煮え立つ様だ。じわじわと炙られる様な熱が、セレティナの肌を焼き始める。
そして、それはセレティナが小さく腰を落としたのと同時だ。
ゴダラの口腔に目を覆うほどのエメラルドの閃光が満ちると、地を大きく抉るほどの光線を吐き散らした。放射上に、というよりは、力を一点に集中させた光の柱が石畳に突き立ったようだった。
「ぐぅ……!!」
セレティナは暴風と熱波に煽られながら、全力で地を蹴った。回避、というよりは吹き飛ばされている、という方が正しいだろう。
華奢な体は熱を帯びた石畳の上をゴロゴロと転がり、鞭打った体は悲鳴を上げている。
(不味い……これでは魔物共と戦う前にゴダラにこの街を焼き尽くされてしまう……!)
セレティナは転がりながら、腰に差した『エリュティニアス』を抜剣した。そこに躊躇は無い。
躊躇の間すら惜しい。セレティナの決断は何よりも速かった。
「ゴダラ……! お前には少しお灸をすえてやる必要がありそうだな」
背筋が凍る。セレティナの操る『エリュティニアス』の嘶きは、何よりも底冷えする殺気を秘めていた。
殺す気は毛頭ない。しかし、殺す気で掛からねば殺される事は、彼女は百も承知だった。
研ぎ澄まされていく殺気は、細く、鋭く……。
先程までの温和な『セレティナ』の姿はとうに失せ、一人の修羅が滲みだしている。
浅く呼吸を吐いて、煌めく宝剣を中段に構えた。
「首は残すが……何れか一本は貰い受ける」
尾か腕か。セレティナは群青色の瞳に溜めた光を薄く細く研ぎ澄ますと、柄にやにわに力を入れて――
「ゴダラ! 止めてくれ! 俺だ!」
――セレティナの前に、ガブドゥが躍り出る。
「なっ……!」
思わぬ闖入者に、セレティナの気勢が一瞬にして殺がれた。
ガブドゥの勇気ある行動は、しかし無謀だ。暴走した竜相手に、半端な呼びかけがどれだけの効果を期待できるだろうか。
気が付けば既にゴダラの尾が振り回されており、石畳を抉りながら彼らの元へと殺到してくるところだった。
「うっ……!」
「ガブドゥ!!」
――間にあわない。
セレティナは宝剣を放り投げると、ガブドゥの体を掻き抱いた。
この状況でやれることなど、尽せることなど、とうに無い。
セレティナはせめてものこの少年だけは……という願いから、彼の体を覆う様に頭を胸に抱きかかえた。
「ゴダラ! 止まってくれ!」
セレティナの叫びは、しかし虚しく。
黒々とした竜の尾は、けたたましい音をかなぐり立てながら地を穿った。