培ってきたもの
部屋の中は異臭が漂っていた。
目に染みる様な酸味のある臭いだ。
セレティナは鼻の頭に皺を寄せ、不快感を露わにするとガブドゥを見やった。彼もまたこの刺激臭には耐性がないらしい。顔をしわくちゃにして、目端には涙が滲む程だった。
部屋は狭い。
いくつも並べられた大樽の中には拳ほどの大きさの蛙がみっちりと積まれており、その腹をナイフで手際よく開いている男達が何人か確認できる。
開いた腹の中から丸々とした内臓を一つ切り取り、それを近くの手桶の中に次々と放り込んでいく……そんな作業が、延々と続いていた。
「ニガブリ蛙を捌いているのですね」
セレティナが鼻呼吸を止めながら呟くと、ガブドゥはうんと頷いた。
「よく知っているな。ならあいつらが何をしているか分かるな?」
僅かな悪戯心を滲ませながら、ガブドゥは問う。
ニガブリ蛙の肝臓は魔法薬を作るのに必須だ。
身や他の内臓は臭いが酷い上に毒にも薬にもならないが、肝臓だけは違う。一匹一匹の存在価値は希少だが、どこにでも生息し、どこででも目撃されることから、世の冒険者達はまずニガブリ蛙の捌き方……肝臓の摘出の仕方を習得している。
恐らくはウルブドール脱出に先駆けて魔法薬を量産しておこうという算段なのだろう。
完璧なものは作れなくとも、それを真似た劣化品であれば末端の錬金術師にでも作ることはできる。
ニガブリ蛙を廃棄せず、ここで消費しようというのは確かに生産的だろう。
だが……それは誰もがやりたがらない作業だ。
ニガブリ蛙の肉は刃を入れた瞬間から腐り始め、異臭を放つ。それも、強烈な臭いだ。
神経をすり減らせ、五感を鈍らせる臭いを放つことから、冒険者の間でも討伐依頼の最中は絶対に捌いてはいけないという戒めがある程だ。
この部屋には、そんな異臭がむんむんと籠っている。
たちどころに意識を刈られそうになるガブドゥだが、手早くマスクをあてがい、それと同じものをセレティナに手渡した。
セレティナは一瞥するだけで意図を把握し、ガブドゥと同様にマスクを装着したが、それでも尚臭い。分厚い布きれ一枚など容易く貫通するほどの刺激臭だ。
「お前の仕事はこれだ」
ガブドゥはにべもなく言い放った。
誰もやりたがらない仕事をセレティナに押し付けようという腹だ。どうせあの身形のよいいけすかない(認めたくないがヴィヴィシィに好意を持たれているらしい)美少年はこのようなヨゴレ仕事などしたことないのだろうという思い込みと、慣れぬヨゴレ仕事で何かしらの失態をし、ヴィヴィシィからの評価を少しでも下げようというささやかな計略だった。
「エプロンとナイフがこれな」
「……換気はしないのですか?」
「しない。この一室まるごと清浄魔法が掛けられてる。外に臭いを漏らしたら魔法の範囲外だ。これでもここの空気は洗われてるんだぜ」
「なるほどね……」
セレティナは顔を顰めたままだ。
その表情にガブドゥは内心ほくそ笑んだ。
(嫌ならやめてもいいんだぜ)
しかしそのような事はおくびにも出さない。
ガブドゥはにこりと微笑むとセレティナの尻をばしりと叩いた。
「んじゃ、後は任せるぜ。何か困ったことがあったら周りのやつに言えな」
「君は?」
「俺は別ンところで仕事があるからさ。じゃあ一時間後にまた来るわ」
ガブドゥはそれだけ言って、意気揚々と部屋を後にした。
男達にこの事を話してやろう、という少し勲章を携えた気にすらなっている。
一時間後が楽しみだ。
◇
一時間後。
意気揚々とガブドゥはあの部屋へと向かっていた。
鼻歌でも鳴らしたくなるほどだ。
あのティークという少年が今頃泣きべそをかいているのだろうと思えば胸がすく思いだ。
ガブドゥはまだ十四歳。まだまだ可愛らしい野心と悪戯心だが、相手にしてみればたまったものではない。
「……あれ?」
しかし異変に気がついて声が出た。
何やらあの部屋の様子が可笑しい。
異様な熱気と歓声に包まれている。
屍人当然に作業していたあの沈黙の部屋とは思えない熱量だ。
「何なんだ……?」
扉を開いてみると、
「おおおおおお! すげぇ!! この小僧の捌き速度、ゲンさんに肉薄しているぞ!」
「ニガブリ蛙をさばかせりゃあ宇宙一と名高いゲンさんにここまで肉薄するとは……! しかも鮮やかだ……!」
「おいおい! こりゃあマジでどっちが早いか分からんぞ!?」
「俺は小僧に賭けるぜ!」
「ゲンさんは流石に負けねぇだろう! 俺は銀貨一枚賭ける!」
想像以上の熱狂がガブドゥを待っていた。
セレティナとゲンは隣り合ってニガブリ蛙のハラワタを捌いている。
ナイフを一つ走らせると、まるでほつれた糸が引っ張られるようにするすると肉が解けていくのだ。
つるりと剥かれた心臓は近くに置かれた桶の中に山と積まれていき、そしてその山はみるみるうちに高く聳えていく。
ニガブリ蛙はこれでかなり捌くのが難しい。
あの目も眩むような速度となれば尚更だ。
「ええっ……!?」
ガブドゥは絶句せざるを得ない。
あの土すら触ったことの無さそうな美少年が、職人をすら驚嘆させるほどの腕前で蛙を剥いていくなど誰が想像できようか。
ガブドゥと目があったセレティナはやわらかく微笑んだ。
「もう一時間経ったのですね」
「あ、ああ……それより、お前、すごい早いのなそれ……」
ガブドゥは言いながら、鮮やかに捌いていくセレティナの手際に見とれていた。
「はい。最初は手こずりましたが、慣れれば早いものですよ」
「捌いたこと、あったんだな……」
「ええ、とても『懐かしい』ですね」
セレティナはそういって良い笑顔を見せた。
彼女が前世……英雄、引いては騎士に成る前の話だ。
一端の冒険者だった彼女は、貧乏だったこともあり、ニガブリ蛙を捌く機会は少なくなかった。それに野生の蛙なども貴重なタンパク源だ。
とっ捕まえては剥いて食べていた頃が、彼女には酷く懐かしく感じられるのだ。
そんな経歴など知る由もないガブドゥはただただ驚愕し、更には王子の様な容姿の美しい少年が次々と蛙を捌いていく様子に若干引いてしまっていた。