飛行船ヴィクテイリア号
「んんう……」
セレティナは目を覚ました。
瞼は重たく、しかし頭は眠る前よりも冴えているように感じる。睫毛をしっかりと湛えた瞼を持ち上げ、ぼんやりとした視界を晴らすと、そこにあったのは紅潮したヴィヴィシィの顔だった。
「わっ」
思いがけず声が出る。
すると、ヴィヴィシィは余りにも吃驚した様で、叫びとも言えぬ叫びを上げながら後方へと転がり回った。
「ど、どうしました!?」
目を丸くして駆け寄るセレティナ。
しかしヴィヴィシィは差し出すその手を受け取らず、わたわたとして紅潮した顔を背けるばかりだ。
「わーっ! 何でもないです何でも……!」
「……?」
少し大袈裟な否定に、セレティナは疑問符を浮かべるが、その真意は彼女の知るところではない。
きびきびと立ち上がるヴィヴィシィを見るにつけ、所在の無くなった手を仕方なく引っ込める。
「怪我は?」
「な、なななないです!」
「そうですか。凄い勢いでひっくり返ってたから……とにかく大事ないようで良かったです」
にこりと微笑むセレティナに、やはりヴィヴィシィは顔を合わせられない。
◇
あの後、セレティナはヴィヴィシィを伴って『エルバの浮舟亭』を後にした。
先に言った通り、セレティナも何か積み下ろし作業を手伝えないかと進言したからだ。
ヴィヴィシィは勿論そんな事はしなくていいと言ったのだが、そこは義理堅いセレティナだ。迷惑を掛けたのは自分なのだから何かしら手伝いたいと頑として譲らず食い下がり、今に至る。
そして、その道中。
(……私、何かしたかなぁ)
セレティナは何とも名状し難い不安の様なものに駆られている。
隣を歩くヴィヴィシィとの距離は何となしに遠い。それに加えてセレティナが声をかける度に怯えた様な……または焦った様な仕草を憚らないのだ。
亀が甲羅の中に頭をしまう様に、彼女にコンタクトを取ろうとする度に防御姿勢を取られる事にセレティナは疑問を抱いた。
(女性というものはよく分からない……かくいう私も、今は女性なのだが……)
短くなった髪を梳きながら、セレティナは小さく溜息を漏らした。
(もしかして私、少し臭うかな……)
……一方のヴィヴィシィといえば気が気じゃない。
何せ先程唇を重ねた容姿端麗な貴人が側を歩いているのだ。
(頭がどうにかなりそう……)
失礼極まりない態度を取り続けているのは自覚しているものの、改める事はできない。
何とかその場を取り繕うだけで精一杯なのだから。
何か話しかけようとしても、ふわりと香るティークの甘い香りに顔が紅潮してどうにも体が動かない。
道中、頭は真っ白だった。
だから、それが見えた時、ようやく話題が見つかったと安堵したというものだ。
「ティークさんっ! 見えました! 船です!」
遠く、遠く。
しかし側に感じられる程に圧迫感のある威容を誇るイミティアの『船』が、ようやく見えてきた。
◇
『ヴィクテイリア号』
エルフの森『オールグルー』に聳える一本の巨大樹から切り出されたという巨大飛行帆船は、空を押しつぶすほどの巨体を晒していた。
不浄を洗う様な白い船体は、しかしよくよく見てみれば細かい傷が幾多も刻まれ、その勇ましさや今までの厳しい航路を想起させる。
元は巨人族の漁船を想定されて設計されたというこの船は、人族の身からすれば本当に馬鹿げた大きさだ。
小さな街ならまるまる二、三は積み込める程に……。
そんな巨体の横っ腹には光り輝く巨大な宝玉が連なる様にいくつも埋め込まれている。大人二十人が手を繋いで漸く取り囲める程に巨大な宝玉だ。
宝玉は『飛宝石』と呼ばれ、これらが『ヴィクテイリア号』を飛行船たらしめていると言ってよい。
今も、ふわふわと船体が地を離れて空を漂っているのを見ればその力も感じることができるだろう。
それらは淡い緑色の光を讃え、今は眠っている状態だ。
そして何よりもその先頭。
大木の幹より太い手綱に繋がれているのは二頭の龍だ。
黒く荒々しいゴダラに、白く美しいソーム。
美しく、生命力を感じられる鱗を全身に隙間なくびっしりと湛える彼女らも今は眠っている。
ソームは健やかに眠っているが、ゴダラのイビキはまるで地鳴りの様だ。
セレティナは『船』を見上げ、目を細ばんだ。
十四年ぶりに見る『船』も、そしてソームとゴダラも、何も変わらない。
イミティアと同じく彼女らは何も変わらないでいてくれたのだと思うと、セレティナの胸は人知れず熱くなった。
もはやこの大きさだと麓と言ってよいだろう。
セレティナは船の底の側まで案内を受けると、毎度よろしく旅商団の女衆から手痛い歓迎を受けた。