寝顔
「先に帰っててくれ」
イミティアにそう言われたセレティナは、一人帰路を行く。
宿は決まっていないと言ったら『エルバの浮舟亭』の一部屋を引き続き貸してくれるという。
現在のウルブドールは治安も悪ければ信頼の置ける仲間もいない。
その申し出はセレティナにとっては有り難かった。
これにはまたセレティナ……オルトゥスに勝手に姿を消されては困るというイミティアの思惑があるのだが、これを単純な善意として受け取った。
イミティアは旅商団の頭として会議に参加しなければならない為、貴賓館に置き去りだ。
お堅い会議に彼女だけ置いて行くのは些か不安ではあるが、はっきり言ってセレティナは疲れたのでイミティアの好意に甘えて先に休ませてもらうことにした。
話はさて置いて『篠突く影』の二人はふらりとどこかへ消えたままだ。今後の方針を彼らに話しておきたいところではあるが、野放しにしておいても上手くやれそうではあるし、そもそも何処かでセレティナの行動を見ているかもしれない。
まああの二人なら大丈夫だろう、という謎の信頼を寄せ、また危機が迫れば彼らからやってくるという飼い猫にも似た感情を抱きつつ、セレティナは静かな道を行く。
暫く歩くと、『エルバの浮舟亭』が見えてきた。
セレティナは守衛の二人に会釈して宿の中に入ると、そこには旅商団の喧騒は既に無かった。
(……そうか。出払っているのか)
セレティナは悟ると、閑散としたロビーに佇んでいるソファに腰掛けた。
昨夜、それから今朝に掛けてあれだけ騒がしかったのがまるで嘘の様にシンと静まり返っている。
今頃彼等は『船』で荷物を下ろしている頃だろう。
膨大な量だ。どれだけ人手があっても足りない作業量なのは間違いない。
巨人のウッドバックが何ら問題無く船上で生活できる程の『船』だ。如何に巨大であるか、想像に難くない。
セレティナは腰の留め具から『エリュティニアス』を取ると、隣に立て掛けた。
浅く息を吐き、旅商団の皆々に迷惑を掛けたと憂慮し、群青色の瞳が僅かに揺れる。
(後で彼らにも感謝の意を伝えなきゃな……)
セレティナが巻き込んだ事だ。彼らに伝えるべき事はしっかりと伝えねばならない。
だが、今の彼女は久々の静寂に気が緩んでいるところだった。
柔らかなソファの感触は、否応無くセレティナを微睡みの世界へと連れていく。
(寝ちゃ駄目だ……私も……『船』、に……)
抵抗は虚しく。セレティナは規則正しく、健やかな寝息を立て始めた。
◇
お下げがチャームポイントの少女、ヴィヴィシィは『エルバの浮舟亭』に漸く戻ったところだった。団内でも取り分け非力な彼女は、宿に置き忘れていたレミリアの書類を取ってきて欲しいとおつかいを頼まれていた。
ヴィヴィシィは会計や倉庫管理が主な仕事であり、男衆と混じって積荷を下ろす作業にほとほと嫌気が差していた頃だったので、こういった力要らずの仕事を任されたのは有り難かった。
全ての積荷を下ろしてウルブドールの民間人を受け入れる。団長のイミティアがそう公言した時、ヴィヴィシィはあからさまに苦い顔をしたものだ。
ウルブドールという都市や、そこに住まう民達への同情が無いわけではない。しかしベルベット旅商団とはいえ自分達もただの商人なのだ。他者を気遣う余裕は無いし、脱出の足枷になるのなら堪ったものではない。
当然、イミティアもそういう意識なのだろうというのは団内でも共通の意識だった。
しかし今日、イミティアは全ての積荷を下ろすと言ったのだ。急な指示に不満を持った者も少なからず居た。
だが、こういう大切な指針こそ団長に従う……従属ではない、圧倒的な信頼関係が団員達の不満を解きほぐすのだ。
あの横柄なイミティアが真摯に頭を下げて請うたのだ。その願いは家族として聞き届けなければならない。
事実、イミティアに文句を垂れる者は居ても表立って反論する者はいなかった。
勿論ヴィヴィシィとて同じだ。面倒で、不利益ばかりだが、ああも真剣に頭を下げられたのなら家族として協力を惜しむわけにはいかない。
しかし何故イミティアはこの土壇場で決断を下したのか、それは誰しもが聞きそびれてしまった。が、事態を把握しているらしいレミリアが、この決断は団にとって将来的にメリットになり得ると発言したのだから、そうなる事はまず間違いないだろう。
まずは生きてこの都市を脱出する。それが先決だ。
「ええと、レミリアさんが言っていた書類は何処だって言ってたっけ……」
頭をぷんぷんと振り、思考を追い出した。地頭の悪い自分があれこれ考えるよりも、レミリアに決を採ってもらうのが一番だと思い直し、ヴィヴィシィは『エルバの浮舟亭』の扉を押し開いた。
やれる事を、やれる時に、やれるだけ。
自分の仕事はサッサとこなして新しい仕事を貰うに限る。時間も人手も足りないのだから当たり前だ。
誰もいないロビーは、嘘の様に静かだった。
こつこつと鳴る己のブーツの音がやけに大きく聞こえ、広い空間に自分だけ、という感覚が少し不思議だ。
自分の呼吸。ブーツの音……そして、寝息。
(寝息?)
深く、規則正しい寝息はやけに気持ち良さそうだ。
(誰か、サボってるねこれは)
少し恨めしい感情が湧いて、次いで悪戯心が染み出した。
少し遠く離れた背を向けたソファ。深く腰掛けているせいで誰がそこに座しているか分からないが、確かにそこで誰かが健やかに眠っている。
(……驚かせちゃおう)
そろりそろりと、気取られぬ様に。ヴィヴィシィは滑らせる様な忍び足でソファの裏に回って、
「わぁ……っ」
喉の奥から、声が出た。
悪戯心は、とうに失せていた。
件の美少年……『ティーク』がそこに眠っていたからだ。黄金の睫毛を湛えた瞼はしっかりと閉じられ、肘掛けから頰杖を付いている柔らかそうな拳はしっとりと彼の頭を支えている。
浅く胸が上下し、疲れているのか起きる気配は全く見受けられない。
「……」
ヴィヴィシィは吸い込まれる様にその顔の目前に迫った。
何かしら意図があるわけでは無い。
ただ美しいものを目にした時、それをもっと近くで見よう……そういった心理が働いただけだ。
気付けば、睫毛の一本一本が数えられるまでに迫っていた。
このティークという少年……セレティナだが、見れば見るほどに美しいのだ。キメ細やかな肌は思わず触ってしまいそうになる程だし、小ぶりで形の良い唇は妖艶に潤んでいる。
見れば見るほどに見惚れてしまう。
今まで色恋というものに憧れてはいたものの、全くそう言ったことが縁遠いヴィヴィシィは、これ程に容姿の整った同年代の異性と触れ合うことなど無かった。
免疫が無いとでも言うのだろうか。
ヴィヴィシィの頭は果てのない熱に浮かされ、ふやけ、セレティナの寝顔に夢中になってしまっていた。
今朝方にセレティナとイミティアが情熱的に抱き合っていたことなど遥か彼方だ。
だから。夢中だから気づかない。
「うぅ……ん……」
少し寝苦しそうに頭を擡げたセレティナの動きを。
その唇は、目前に迫っていたヴィヴィシィのものと軽く触れ合って——
「…………え?」
——ヴィヴィシィの思考が、フリーズした。