名
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ここからは二人で話したい。
「……」
イミティアの橙色の瞳が、セレティナの群青を真っ直ぐに捉え、やがてその瞳はレミリアへと向かう。
「レミリア」
「はい」
「少し外してくれ」
「……承知致しました」
レミリアは少し言い淀みそうになったが、聡い彼女だ。
それ以上は何も言わず、しずしずと部屋をあとにする。
「……」
僅かな静寂。
扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた気がする。
セレティナはこの時、緊張に身を強張らせる自分と、それから驚く程冷静でいられる自分が同居していることに気が付いた。
心臓は早鐘を打っているというのに、頭はやけに冴えている。
セレティナの物言わぬ心の泉に、ゆっくりと緊張が垂らされ濁るのみ。
「……二人になったが」
そう告げるイミティアにハッと顔を上げるセレティナ。
自分の内に意識を巡らせていたせいで、どうやらイミティアは反応を待ち続けていたようだ。
セレティナはすぅ、と薄く息を吐き出して、思考を巡らせる。
さて、何から話そうか、と。
そして、ゆっくりと切り出した。
「イミティア・ベルベット。今から私が口にすることはきっと君を驚かせるだろう。動揺を招くだろうし、きっと信じてもらえるとは思えない。だが、私は……俺は、ありのままを君に話そうと思う」
友として。
そう付け加え、セレティナは伏せていた群青色の瞳をイミティアに投げかけた。
イミティアは……僅かに眉根を顰めてセレティナを見ている。
探る様な眼差しだ。
口調の変化に加え、元来の友であるかのような口ぶり……昨日今日知り合った少女からその様な事を言われれば、誰であれ懐疑的な眼差しを向ける事も無理からぬことだ。
セレティナはそれが分かっているからこそショックなど受けないし、丁寧に彼女の疑いを解かそうとするだけだ。
「だがまずは……これを君に見てほしい」
セレティナはそう言って、首に掛かる髪を上げてみせた。
首筋に彫られた『薔薇に絡みつく蛇』の紋章。
一歩前に出て、セレティナはそれをイミティアから見えやすい様にしてみせた。
「それは……何だ?」
「分からない。恐らく呪いの様なものだ。これを君に診せる事も今回帝国に来た俺の目的だった。君は魔法系統……こと解呪に関してはスペシャリストだったからな」
「……見せろ」
イミティアそう言って立ち上がる。
それ以上に説明を求めないのは、セレティナが先程ありのままを話すと宣言したからだ。
彼女は流れに逆らわず、兎に角受け身に聞く事にした。
「……これは」
イミティアは紋章を舐める様に観察すると、
「少し触っていいか?」
「構わない」
細い人差し指で、小さく紋章をなぞった。
ゆっくりと目を閉じて、神経のひとつひとつを傍立てて意識を集中する。
セレティナはそれをただじっと待つだけだ。
この紋章の謎が、きっと明らかになる。
……しかし。
「……駄目だ」
「え……?」
次にイミティアの瞼が開いた時、彼女は額に珠の様な汗を湛えてそう呟いた。
それだけ言うとサイドテーブルに置いてあった水を水差しから直接かっ食らって、彼女はベッドに腰を落とした。
「駄目……とは?」
セレティナがおずおずと尋ねると、イミティアは首を横に振る。
「膨大で、余りにも複雑すぎる。少し手を付けようとしたが、入り乱れている上にこの呪いそのものが常に記号を書き換え続けていて手の付けどころがない」
「君ほどの腕であってもか」
セレティナは素直に驚いた。
魔法……引いては魔術に関して彼女は知識が乏しい。解呪には至らずとも、この紋章が何なのかぐらいは判明すると思っていたのだが、そのあては外れてしまった。
「こんなもん見たことが無い。これは呪いそのものが生きていると言って良い」
「生きている?」
「ああ。常に成長を続けている呪い、と言った方が正しいな。規模もその術式も複雑すぎて何が何だか分からない。だが、こいつは確かにお前を蝕み続けながら力を蓄えている。お前、これを誰に仕込まれた?」
「……黒白の魔女だ」
「なん……ッ!?」
その瞬間、イミティアの全身が総毛だった。
体の血の気が一気に引いていき、僅かな眩暈を覚え始める。
『黒白の魔女』。
人類史に於ける最悪の魔女の一人であり、盟友オルトゥスを死に追いやった張本人。
死んだ、という噂もあったが……。
「黒白の魔女……」
イミティアはその名を口の中で転がして、セレティナの紋章を今一度確かめた。
じっとりとした手汗が分泌され、体が寒気を帯び始める。息は荒げ始め、イミティアは震える右手を宥めた。
黒白の魔女……確かにあの魔女であるならば、これほどの途方も無い術式をひとつの呪いに組み込めるかもしれない。それほどの力が魔女には充実しているのだから。
しかし、度し難い。
魔女はきまぐれだ。
人の世には執着せず、凡そ何かしらの興味が無ければ人前に姿を現さない不気味な生き物だ。
ならば……。
「セレティナ、お前……一体何者だ?」
刺すような視線が、セレティナを貫いた。
その視線には、先程にはない警戒の色が多分に含まれており――そして、セレティナが口を開く。
「これを先に見せたのは、俺がこれから語る事に信憑性を少しでも与える為だった」
「……」
イミティアは、何も言わない。
ただセレティナを見据えるだけだ。
「魔女……ディセントラの呪いについて解明できなかったのは少し残念だったがな」
「……」
「俺の名は、セレティナ・ウル・ゴールド・アルデライト。それは決して嘘じゃないし、俺はこの名に誇りを持っている。だが、俺にはもう一つ、名前があった」
「もう一つ……?」
イミティアは、怪訝な顔をしてみせた。
セレティナは一拍を置いて、浅く息を吐いた。
そして、次に自分をこう名乗るのだ。
――それは、十四年ぶりに口にする自分の名。
「……俺の名は――」




