【書籍化記念書き下ろしSS】夏の幻影3/4【挿絵付き】
ハダハ村は、暗い静寂に満ちていた。
底に沈殿した泥の様な村の様子にオルトゥスは気づくと、剣を鞘の中に収め、臨戦態勢を解いた。
(……終わっていたか)
浅く溜め息を吐き、オルトゥスは顔を顰める。
オルトゥスを見た村民達は彼が生きていたことに驚愕を示し、どよめいていた。
「ウィステリア」
呼んだ声に、ウィステリアは重たい顔を漸く頭を上げた。
膝から崩れ落ちていた彼女の顔は、涙で顔面がぐちゃぐちゃだった。
「お兄さん…! なんで? どうして?」
「……生きていたら悪いか?」
「普通、死んでると思うよう」
「心配かけた」
飛びついてきたウィステリアの鼻水をまともに腹に受けたオルトゥスだったが、それを嫌な顔一つせず彼女の頭を撫で付ける。
「奴はどうした。もう帰ったのか」
「うん。でも、ロードンが……」
「食べられたのか?」
「ううん。連れて帰られちゃった」
「そうか」
状況は明るくない。
だが、まだ食されていないというのなら間に合う可能性はある。
「ウィス。俺を『魔王』の巣まで連れて行ってもらえるか」
「クロ様の?」
「ああ、まだ今ならロードン君を助けられるかもしれない。だから――」
そこまで言って。
「ならあああああああああああああん!!!!」
怒号が飛んだ。
見れば村長が杖を突きながら大股で歩み寄るところだった。
「ならん! ならん! ならん! 貴様らそれ以上クロ様のお怒りを買う気か!」
杖を振り回す村長の顔は今にもはち切れそうな程に真っ赤だった。
「何のマグレか偶然か生きているようじゃが、これ以上貴様らがクロ様に楯突く事はこのワシが許さんぞ!」
「しかしご老公。ロードン君は今まさに命の危機なわけで」
「そんなもんは仕方ない事だと受けいれる他あるまい! クロ様は気まぐれに祠から出てくる事もある! 寧ろ贄が一人だけで済んだとワシは安堵しておるほどじゃ!」
「しかし……」
「余所モンが顔を突っ込むな! ワシらはこうして生き永らえてきたんじゃ! それに今貴様らがクロ様の祠へ行ってどうする! お前はクロ様を討てるのか! えぇ!?」
「それは……」
勝てない。
勝てないが、逃げと足止めに徹すればロードン一人を助けることはできるだろう。
だが、その結果『魔王』の怒りを買ってしまえば村民に更なる被害が起こりうることは確かだ。
八方塞がりな現状に、オルトゥスは唇を噛んだ。
思案に暮れている彼の裾を掴んだのは、ウィステリアだった。
「ウィス?」
「……お兄さん、やめとこう。今行ったってどうにもならんよ」
「……ウィス」
「何?」
「……明朝、日が昇り次第この村を出て、装備を整えて必ず戻ってくる。だから」
「……待っとる」
「……すまない」
ウィステリアの顔は、やはり涙で濡れていた。
オルトゥスの胸の奥に、棘が刺さったように痛んだ。
◇
――夜。
ウィステリアは、毛布に包まって剣を掻き抱いていた。
思い起こされるのは、昼間の惨状……そして、ロードンとの思い出の日々。
村にはウィステリアと同年代の人間などいない。
故にウィステリアとロードンはいつも一緒だった。
同じ釜の飯を食らい、もっと幼い時には一緒に風呂に入ったこともあった。
かけがえのない、大事な幼馴染。
ロードンはウィステリアの騎士の夢を笑う悪餓鬼であったが、それが本音の嘲笑でないとは彼女自身も分かっている。本音では彼女の身を案じていることも。
「……ロードン」
そんなロードンが、今クロ様に食されているのではないかと思うだけで、彼女の心臓は不規則に早鐘を打った。
背中には粘っこい汗が張り付き、全身を寒気が走る。
昼間見たロードンの兄の惨たらしい死を思い起こし、ウィステリアは吐き気を催した。
人は、命は、あんなにも粗末に扱われるものなのか、と。
ロードンもあのような死を遂げてしまうのか、と。
手汗は、止まらない。
全身の震えも、止まらない。
彼女の意思に関係なく零れ落ちる涙は、頬を伝ってベッドを濡らしていく。
「……ロードン」
ウィステリアは毛布を引き剥して立ち上がった。
剣を固く握り込み、オルトゥスに教えてもらった言葉を今一度繰り返す。
「大事なのは、誇りと信念」
強さじゃない。
ウィステリアは、心の奥で決心を固めると、誰にも悟られない様にこっそりと家を抜け出した。
その手に、使い込んだ剣を携えて。
◇
オルトゥスは、目覚めた。
朝ではない。
窓の外を見れば、未だとっぷりとした夜闇が辺りを満たしている。
彼を起こしたのは、外の喧騒だった。
大人達が広場に集まり、松明を携えて何事かを捲し立てている。
(……なんだ? 祭り、ではなさそうだが)
客用に用意された小屋を抜け出し、オルトゥスは広場へと向かう。
「何事ですか」
オルトゥスの低いよい声が通ると、注目を浴びるのは直ぐだった。
余所者の上に、上背があり、昼間見せた驚異的な力……人の目を集めるのは容易い。
オルトゥスの問いに、大人達は言い淀む様子だった。
「……どうしたんですか。何かあったのではないのですか?」
「ウィスが……」
「おい!」
口を開きかけた村民の一人は、止められることでハッと口を噤んだ。
(ウィスに、何かあったのか? ……まさか)
「ウィスは、もしかして例の祠へ行ったのですか」
問い詰めるオルトゥスに答えたのは、他ならぬ村長だった。
「ああ、そうだ。馬鹿な子じゃ。気づいた時には村を抜け出しておった。もうどうにもならんよ」
「……何という事だ。早く止めないと……。私に祠の場所を教えてください」
「それは駄目だ。お前がクロ様の機嫌を損なうかもしれん」
「戦うつもりはありません。満足な装備が無ければ私とて殺される。この夜の森を子供の足で進むとなればまだそう遠くへはいけていないはず。私の足であればまだ追い付く可能性はあります」
「……戦うつもりはない。それは真なる言葉か」
「……神に誓って」
暫し、見定める様な村長の視線がオルトゥスを射抜く。
オルトゥスはその視線に身じろぎもしなければ、動揺もしない。
ただ真摯にこちらも訴えかける視線で応じる。
それだけだ。
「……ふぅ」
やがて根負けしたように村長は息を吐いた。
疲れたような、呆れたような溜め息だった。
「誰ぞ、こいつに道を教えてやれ。松明は貸してやるな。クロ様に気配を悟られぬ事、クロ様と戦わぬことは必ず守れ、良いな」
「承知しました」
固く頷くオルトゥスに、周りの村民がどよめきたった。
「よいのですか村長! この者に祠の場所を教えてやっても! また神の機嫌を損ねることになるやもしれませんぞ!」
「良い。どうせ誰もあの祠周りの探索はやりたがらんじゃろう。ウィスをまだ引っ張り出せる可能性があるのなら、こやつにその役を買わせるしかなかろうて」
村長の一言に、村民達は誰もそれ以上食い下がる事はない。
先程まで、誰が祠周りにウィステリアを捜索しにいくのかで揉めていたのだから。
「……こい、道を教えてやる」
「感謝します」
オルトゥスは、素直に頭を下げた。
◇
森の夜は、それだけで恐怖だ。
光の差さぬ漆黒の世界は、まるで深海だ。
足元は安定せず、遠くでは野生動物の鳴き声が聞こえてくる。
ざわざわと時折囁く木々の葉は、そこを歩く者を悪魔達が嘲笑っているようにも見える。
岩肌の影や、大きな木の幹の黒いシルエットは化け物と見紛い、年頃の少女がそこを歩くには余りにもハードルが高い。
ウィステリアは泣きそうにならながも一歩、また一歩と足を進めていく。
竦む脚は、動いているだけでも奇跡だ。
祈る様に握り込んだ剣の切っ先も、大きく震え、彼女の恐怖心を鏡の様に映している。
「……あった」
一時間程歩いただろうか。
ウィステリアは目的の祠を発見し、心臓が大きく跳ねた。
目的地に辿り着いた安堵と、目的地に辿り着いてしまった絶望。
相反する感情が彼女の小さな胸の奥で綯い交ぜになり、それが嘔吐感となって体中を蝕んだ。
だが、吐くことはない。
泣くこともない。
ここにくる道中、汁という汁はもう出し尽くしてしまったのだから。
ウィステリアは立派な勇気を携えて、祠の中へと入っていく。
入口は狭く、余りにも暗い。
ヒカリゴケという、光を蓄える苔が其処ら中に自生しているお蔭で視界が保たれてはいるが、それでも暗く、彼女の不安を煽り続ける。
ウィステリアは最後の晩餐と称して道中にもぎ取ってきた果実を口に運んだが、緊張と恐怖の余りに味を感じることはなかった。
(うう……やっぱり怖い……どうしよう……)
ここにきて終ぞ彼女の勇気に後悔の影が迫ったが、その時だった。
「アア、オ腹空イタ。ソロソロ食ベチャオウカナ?」
祠の奥から童の様な無邪気な声が聞こえたのは。
(クロ様だ……っ!)
よく反響するその声は『魔王』のものに相違ない。
ウィステリアの爪先から頭頂まで、びりびりとした震えが駆け巡った。
もう、時間は無い。
最後に彼女の背中を押したのは、勇気か、無謀か。
……違う。
「誇りと、信念だ……!」
剣を携え、岩の陰からウィステリアは躍り出た。
ぶるぶると震える足を何とか叱咤し、漸く鉛の様な体を引きずり起こしたのだ。
「ロードンをッ! 返せッ!」
ウィステリアは、吠えた。
祠の奥では、祭壇の様な物の上で『魔王』が寝そべっている。
蒼炎が灯った燭台が、巨大な透明の壺に収められたロードンの寝顔を煌煌と照らしていた。
『魔王』はどうやら、その訪問が意外だったらしい。
漆黒の体をもたげる様にして起こすと、肩を竦めて人間の様な仕草をしてみせた。
「君、何シニキタノ?」
「ロードンを、取り返しにだ!」
「大人達ハ引キ止メ無カッタノ?」
「これはウチの独断だ! ウチも騎士になる女! 自分の信念と誇りに嘘はつけん!」
「ソ、ソウカァ……止メトイタ方ガイインジャナイ? 君、死ヌヨ」
「その覚悟はしてきた! だから! ウチは! 逃げん!」
頑として譲らぬウィステリア。
そんな彼女の姿に『魔王』は何故か――
――焦燥していた。
「今引キ返スナラ、特別サービスデ生キテ返シテヤッテモ良イケド」
「ウチは! もうやると決めた! 騎士の誇りにかけて!」
「デモ君、騎士ジャナイジャン」
「でもも糞もなか! やるったらやる!」
こうなってはもうウィステリアはヤケクソだ。
覚悟を決めた女性というのは、かくも強い。
剣を振り回して、駆けだそうとしたところで――
「ウィステリア!」
オルトゥスが、その行く手を阻んだ。
「お兄さん!? どうしてここに!」
「馬鹿者! お前こそ何をしている! 命を粗末に扱うな!」
「でも、でも! ロードンが!」
悲痛なウィスの叫びに、オルトゥスは唇を噛んだ。
出来る事なら、『魔王』に接触する前にウィステリアと接触したかった。
だが、もう遅い。
既に事態は動き出している。
『魔王』はオルトゥスの姿を認めると、今度はいつもの調子を取り戻して目を細めた。
「君、生キテタンダ。フゥン、凄イジャン」
「くそったれめ……」
「アノサァ、子供ノ手綱ハシッカリ握ッテナキャ。ジャナキャ、僕ガ教育シナキャナラナクナルダロウ」
『魔王』がそう言うと、メキメキと体が変形を始めた。
子供の様な体はみるみる肥大化し、堅牢な鱗が身を起こす様に並び立つ。怖気が走る乱杭歯を生やして、『魔王』はやがて漆黒の巨大な竜へと姿を変える。
長身のオルトゥスが大きく見上げる程の竜へと姿を変えた『魔王』は、足元の蟻を嘲笑するように蒼炎を口端から零した。
「……それが真の姿か。『魔王』」
「ソウイウコト。子供ノツケハ、キッチリ大人ニ払ッテモラウヨ」
「……上等」
にやり、と憎まれ口を叩くオルトゥスだったが、彼に余裕などない。
交戦しないようにと、村民達になけなしの装備まで剥かれたからだ。
丸裸で『魔王』に勝てる勇者など、どのお伽噺にも存在はしない。
「ウィス! 早く逃げろ! 俺が気を引いている間に――」
「こ、腰っ……腰抜けた……」
「なんだと!?」
見れば、顔面を蒼白にしてぺたりとへたれこむウィステリアの姿があった。
先程までの威勢はどこにいったというのか。
オルトゥスは顔を顰めると、『魔王』の足元に滑り込み、ウィステリアから距離を取った。
「こっちだトカゲ野郎!」
「……フゥン、挑発ネ。イイヨ、乗ッテアゲル」
『魔王』はにやりと笑うと足元のオルトゥスを踏みつぶそうと彼の後を追いかけていく。
オルトゥスは驚異的な速度で地を這い回るが、ここは狭い洞窟の中だ。
逃げ回る場所など、限られている。
「くそッ……ウィス! 早く逃げろ! 今の内だ!」
「は……はひっ……腰が……足が……」
「ウィス!」
ウィステリアは、完全に腰砕けだ
(これは不味い……このままだと二人とも……!?)
僅かな思考。
それが動きを鈍らせる。
巨大な足底が降ってきたのは直ぐだった。
「ぐ、ぅおおおおおおおおおおおおお!?」
オルトゥスは回避の選択を捨て、それを受け止めた……が。
「お兄さん!」
ウィステリアの悲壮に満ちた叫びが飛ぶ。
大質量の上に、『魔王』の誇る圧倒的な力。
凡そそれを受け止めていること自体が離れ業な訳だが、しかし単純な力比べとなるとオルトゥスには分が悪い。
足元の地盤を踏み砕きながらもなんとか耐えるオルトゥスを、『魔王』は嘲笑う。
「僕ニ逆ラウカラ悪インダ。ヤッパリ僕ハ、最強ダ! 騎士ナンテ、弱イ生キ物サ!」
強い。
確かに、強い。
オルトゥスは、反芻する。
この『魔王』は、彼が相対してきた『魔王』達の中でも相当に強い部類だろう。
そもそも『魔王』である事自体が特別なのだから強いわけだが。
――だからこそ、オルトゥスに疑問が浮かび上がった。
(何故こいつは……こんな祠に住んでいるんだ?)
先程の『魔王』の台詞。
自己顕示欲が弱いわけでも、臆病なわけでもない。
村を支配し、己の好き勝手思うままに身を振るい、それを行使するだけの異常な力も誇っている。
では、何故だ。
何故この『魔王』は五年に一度だけ、という慎ましい食事をしている?
本来、魔物は『食欲』のみに突き動かされて生きているとさえ言われているというのに。
「おおおおおおおおおおおおおお!!!!」
オルトゥスは渾身の力を溜めると、魔王の足を一気にぶん投げた。
「オッ?」
ほんの僅かに浮いた足底から身を滑らせ、オルトゥスは何とかそこから脱出する。
筋肉には乳酸が溜まり、既にぶるぶると震えが来ている。
距離を取ろうとするオルトゥスの体を、しかし『魔王』の尾が弾き飛ばした。
ひゅうっ……と恐ろしい音を立てて吹き飛んでいくオルトゥスは岩肌に突っ込み、罅割れを形成しながら停止した。
「くそ……どうする」
しかしオルトゥスはけろりと立ち上がる。
タフさは折り紙つきだが、攻撃の手立てがない。
立ち上がるオルトゥスに、流石に『魔王』は意外そうな表情を浮かべた。
「本当ニ人間カ?」
「魔物に言われるとはな」
「ジャア、コレハドウカナ」
『魔王』の喉奥が、強烈に熱を帯び始めたのをオルトゥスは鋭利に感じ取った。
「それは、まずいな」
「死ネ」
そう言うや否や、『魔王』の口から巨大な蒼炎の塊が吐き出された。
オルトゥスは蚤の様に『魔王』の足元を這い回り、逃れようとするも……。
――蒼炎が、祠の中で炸裂した。
強烈な熱量は地盤ごと溶かしつくし、オルトゥスの足場を焦がしつくした。
どうやらこの祠の下は空洞だったらしい。
「なっ……!?」
急に体が浮遊感を得た。
蕩かされた地盤は抜け落ち、足場を失ったオルトゥスはそのまま落下を始めた。
「ウィステリア! 逃げろ!」
叫びは虚しく、彼と共に奈落の底へと落ちていく。
◇
急激に体が冷やされる。
どうやら抜けた地盤の先は洞窟内に形成されていた滝壺だったらしく、彼の体は岩盤に激突することは免れた。
深い、深い、仄暗い滝壺の奥底へと、オルトゥスの体は落ちていく。
(この感覚は……懐かしいな)
思い起こされるのは、先日川の氾濫に巻き込まれたあの日の感覚だ。
あの時も、同じように体の感覚が溶けていくようだった。
(ウィス、無事だろうか……直ぐに戻って……)
――違和感。
(何だ?)
やはりオルトゥスは違和感を感じていた。
何故、ウィステリアは生きていたのだろうか、と。
オルトゥスが漸く彼女に追い付いたときには、何か問答をしていた。
『魔王』にとっては煩わしさしかなく、爪を弾く程の労力で彼女の存在を消せるというのに。
(何故だ?)
先程も考えていたが、どうにもあの魔物の行動はきな臭いところがある。
五年に一度、村の男子を贄として貢がせる『魔王』。
それ以外は祠から出ることは無く、余計に出張る事は特にない。
金級冒険者を呆気なく殺しつくし、丸腰とはいえ英雄オルトゥスを敗走させる程の強大さを持つ。
(何故、ウィステリアを殺さなかった?)
……いや、違う。
(ウィステリアを、殺せなかったんだ)
確信が、オルトゥスの心に生まれた時、それは姿を現した。
黄金の光に包まれるそれは、薔薇の意匠が凝らされている。
それは、オルトゥスが望むままに姿を現し、彼の前で光り輝いた。
宝剣『エリュティニアス』。
オルトゥスはそれをしかと握り込むと己の内が熱くなるのを感じた。
群青色の瞳が、宝石の様に輝きを帯び始める。
セレティナは、ゆっくりと滝壺の底から浮上を始めた。