【書籍化記念書き下ろしSS】夏の幻影1/4【挿絵付き】
本編をお楽しみのところ失礼致します。
突然ですが本日から四日間、書籍化を記念しました特別書き下ろしSSをご用意させていただきました。
こちらの特別SS、なんと……書籍版剣ティアのイラストを担当されている小山内先生のご厚意から挿絵の方もいただいております。(これは本当にすごいことです……!)
本日より四日間、小山内先生に彩っていただいた剣ティアの世界を書籍版より一足早く堪能してもらえたら幸いです。
――夏だ。
どこまでも気持ちよく澄み渡る群青色の空には、猛る様な入道雲がもくもくと己の成長した体を誇示している。太陽から降り注ぐ一切容赦の無い陽光は、夏野菜を育てている農民達の気勢を削ぐのに労は無い。
アルデライト家の四人を乗せた馬車は、穏やかな渓谷の中にあった。
アルデライト家が代々避暑地として活用しているその渓谷には涼やかな川が流れており、その近くにコテージを設けている為、日ごろの疲れや茹だる様な暑さから逃れるにはもってこいの場所だ。
バルゲッドはようやく取り付けた連休を家族でゆっくりと過ごすべく、この渓谷へ足を運ぶことを家族に提案した。
無論イェーニスは快諾。
メリアはセレティナの体調次第なら、と返したが、それは療母のお墨付きが貰えたので幸いだった。
この日に備えてしっかりと体を休めていたセレティナの体は快調そのものだ。勿論万全を期す為にこの旅行に療母も付いてきてはいるのだが。
家族水入らずの避暑地旅行。
この時は誰もが笑顔で過ごせる時間だと、信じて疑わなかった。
◇
「うっわ、めっちゃ降ってきた」
川風がしっとりとした重みを帯び始めたと思えば、土砂降りになるのは直ぐだった。
占い師の予言では今日は快晴のはずだったのだが、天気は生憎の大雨。
川魚と戯れていたイェーニスは、ひぃひぃ言いながら川原まで逃れてきた。
雨に打たれるその表情は、少年らしく良い笑顔だ。
セレティナは侍女の差した雨傘の中で、鉛色の空を見上げた。
(……先程まで溌剌とした晴天だったというのに、珍しい事もあるものだな)
埃の様な雨の香りがセレティナはどうにも好きになれなかった。
というのも雨が降り、気温が変わればこの体には特に障るからだ。
前世、彼女がオルトゥスであったときは雨の中を二日も行軍したことがあったというのに、今の『セレティナ』の肉体は雨に晒されなくても体調が優れなくなる。
だからセレティナは雨が嫌いだった。
「……はぁ」
自然、高熱に浮かされる事を思えば溜め息も出るというもの。
そんなセレティナの溜め息を、父のバルゲッドは慌てて窘めた。
「セ、セレティナよ。そう溜め息を吐くでない。そうだ、コテージに戻ればお前の好きなウェルダー産のチーズがある。そいつを暖炉で焼いて食べよう。バゲットに垂らして食べれば頬が落ちるぞ?」
雨を予期できなかった為か、娘の機嫌を家族旅行で損ねた為か、どうやら彼は父としての面目が立たないらしい。
どうにもセレティナに甘いバルゲッドは、何とか娘のご機嫌を取ろうとあれやこれやとコテージの魅力を語り始めた。
そんな父の姿が可笑しくて、セレティナは楚々として微笑んだ。
「ふふ、お父様。そんなに慌てなくても私はこの旅行を楽しんでおりますよ。ただ、生憎の雨で私の体調が崩れないかと思っただけですから」
「お、おお。そうかそうか。そうだな、それもそうだ。早くコテージに戻ろう。お前の体に障ってはいかん。エルイット! 馬車は出せそうか」
「い、いえ。旦那様、それが雨足がどうにも強くて泥濘みに足を取られる危険がある為馬車は……」
「むぅ……」
バルゲッドは忌々しく空を睨んだ。
気づけば土砂降りの雨は、地を穿つほどに威力を増している。
確かにこれでは馬車を動かすのは少し危険だろう。
「お父様、歩いていきましょう」
「なに、しかしだな」
「この雨の量、ここにいれば川の氾濫に巻き込まれるかもしれません。私なら歩けますから、お気になさらず」
そう促すセレティナに、バルゲッドは頷いた。
「メリア、イェーニス。すまんがここからコテージまで歩いていくぞ。なぁにものの五分も歩けば着くさ」
暴れ狂う川は、既に地鳴りの様な声を上げている。
イェーニスもメリアも、バルゲッドに首肯した。
「セレティナお嬢様。しっかり私に捕まっていてくださいね」
「うん」
侍女のエルイットが差し伸べた手に、セレティナはその小さな手を重ねた。
「よし、行くぞ。泥濘に足を取られない様に気を付けてくれ」
そうしてバルゲッドを先頭に、アルデライト家は侍女を伴って山を登っていく。
やがて雷鳴が鳴り響き、突風が吹き荒れ、雨足は更に勢力を増した。
(これは、まるで嵐だな)
エルイットに手を引かれながら、セレティナはその小さな身が竦む光景に唾を飲み下した。
剛健な肉体であったときは何とも思わなかった光景も、この華奢な体になってからは大変な脅威だ。
より一層気を引き締めて、また一歩踏み出した。
――その時だった。
「わっ!」
足が、泥濘に捕まった。
ずるりと泥の上を靴が滑り、セレティナの体が浮遊感を得る。
「セレティナ様!」
その時エルイットの手を離してしまったのは、巻き込んではいけないという彼女なりの侍女への気遣いだったのかもしれない。
セレティナの体は大きく傾き、そして。
(しまっ――)
セレティナの目に映ったのは、眼下に広がる氾濫した川だった。
支えるものを失った彼女の体は、ばきばきと木々の枝を巻き込みながら崖の上を転がり落ち、そして遂に。
「セレティナ!!!!!」
それが、セレティナが目にしたその時の最期の光景だった。
メリアが、バルゲッドに抑えられながらも自分へと手を差し伸べていた。
……母の顔は悲壮に満ちて。
そして、
「お母様!」
セレティナの体は、猛る龍の様な川に飲み下された。
冷えた川の水は虚弱な彼女の体温を一斉にこそぎ落とし、サマードレスを鉛に変えた。
(不味い。これは、死――)
彼女の意識は、そこで途絶えている。
◇
「……」
セレティナは、ゆっくりと目を覚ました。
この上ない快適な目覚めだ。
体はじんわりとした温かな体温を帯び、十分な睡眠を得られた為か妙に頭が冴えている。
セレティナは目に映るログハウスの様な丸太の天井と、柔らかなベッドと毛布の感触、それから時折薪が爆ぜている暖炉の存在から、自分が何者かの手によって保護されたのだと心得た。
小さな個室に誂えられた小窓からは心地の良い朝日が差し込み、嵐の様な大雨が過ぎ去る程度には時間が経過してしまっているらしい。
(私は助かったのか……いや、助けられたのだな。よく生きていたものだ、有り難い)
ゆっくりと身を起こし、ふるふると頭を振る。
(ここはどこなんだろうか。私は一体、どこまで流されたのだろう)
しばらくそうしてぼんやりとしていると、部屋の扉がノックされる事なく開いた。
ひょっこりと現れたのは、溌剌とした印象を与える少女だった。
歳はセレティナと同程度か若干その下……十歳強程度か。
肌は浅黒く、一瞬少年と見紛う桃色のショートヘアは、しかし女性らしい艶やかさを備えている。
少女は両手に持った盆の上に水差しと果物を乗せ、行儀悪く足で扉を開け放ったところだった。
「あっ気が付いたみたいやね! 良かった良かった!」
表情に向日葵が咲き、少女はサイドテーブルに持ってきた盆を乗せる。
少し聞きなれない訛りだが、見た目と同じく快活そうな喋りだとセレティナは思った。
「あんな川原で裸でぶっ倒れとったけん、見つけた時はビックリしたよ! お兄さん大事ない? どっから来たと? お腹減っとらん?」
ばしばしと質問を投げかける少女に対し、セレティナは戸惑いを隠しきれない。
(裸? いや、それよりもだ……お兄さん?)
「いやちょっと待ってください、私は――」
そこまで言って。
セレティナは衝撃を受けた。
(何だと……!?)
低い。
低いのだ。
圧倒的に、声が低い。
普段の鈴を転がしたようなソプラノは無く、低く落ち着いた声が自分の声帯から発せられた事にセレティナは酷く驚いた。そして、その声は彼女自身がよく知っていた声だった。
「あの、鏡はありますか?」
「鏡? 起きた早々鏡を確認げなお兄さんもしかしてナルシスト? 姿見ならそこにあるけん勝手に使い」
「ありがとうございます」
セレティナはベッドから飛び降りると、急いで鏡の元へ急いだ。
(まさか、まさか、まさか)
心臓は、高鳴っていた。
どく、どく、と小気味よく拍動する心臓に合わせ、汗腺から汗が滲み出る。
彼女の予想が正しいのであれば。
「……嘘、だろ」
セレティナは……いや、オルトゥスは、自身が映る鏡を驚愕せずには見られない。
くすんだ蒼色の頭髪。
上背があり、がっちりとした筋肉に覆われた体躯。
二枚目とは言えないが、精悍な顔立ちは驚きに満ちている。
オルトゥスは腕を上げてみたり、顔や胸板をペタペタと触って感触を確かめた。
そこにはやはりいつもの絹で濾したような柔らかさは無く、ゴツゴツとした岩の様な男の肌触りが返ってくる。
そして、確信に変わる。
それは、紛れもなく。
「私は……俺は、戻ったのか……? 元の体に……」
オルトゥスの心臓は、どうしようもなく高鳴った。
それは悦びであり、焦燥であり、不安であり、緊張であり、様々な感情を孕んだ胸の高鳴りだった。
◇
「はい、切ったけん食べり。お腹減っとうやろ。こんな美少女に果物剥いてもらえるなんてお兄さん幸せモンやね」
「あ、ああ。ありがとう」
少し押しの強い少女にたじろぎながらも、オルトゥスは山と積まれた果物をひとつ摘まんだ。
オルトゥスが見かけたことのない赤い果実だったが、酸味があって中々に彼の好みの味だった。
「それより何があったと? 裸で川原に倒れ取って結構びっくりしたとよ」
少女も果実を摘まみながらオルトゥスに問うた。
「ああ、急な川の氾濫に巻きこまれてな。助かったよ、本当にありがとう」
そう言って、オルトゥスは着せられていたシャツとズボンを見やった。
安物らしい生地だが、裸のままよりよっぽど有り難い。
彼の台詞を受け、少女はにっこりと笑んだ。
「おっ、楽な喋りできるんやね。よかった」
「楽な喋り……?」
「起きた時えっらい丁寧な言葉遣いやったけんさ。そういうお堅い喋りの人かと思っとったん」
「ああ……そちらの方が良いなら変えるが?」
「勘弁勘弁ご勘弁。ウチそういうのどうも苦手やから」
肩を竦める少女に、オルトゥスは苦笑した。
そして、変化に気付かされる。
セレティナであったときは初対面の人間なら例え童であっても自然と丁寧な言葉が出たものだが、どうもオルトゥスに戻ってからはこの少女に対してそこまで礼儀を気にしようとは思わない。
そして現在ベッドに腰掛けている形だが、普段は足を閉じるのが常であったはずなのに今は意識せずとも足は開いたままだ。
体や作法が、意識せずとも淑女から男性のものに変化している。
(……注がれる入れ物によって水が形を変える様に、魂の在り方も器次第で変わる……という事か?)
オルトゥスは少女との会話に興じながら、そういった推測を立てた。
セレティナであったときは自然にできた淑女らしい仕草も、今の彼にとっては辱め以外の何物にも感じないし、自然にそういった仕草ができる自信もない。
(不思議なものだな)
自分が何故この姿に戻ったのか、何故女性らしい仕草が恥ずかしく感じるのか。
それは分からない。
ただ、この姿でセレティナであるのも可笑しい気がするので、彼は気にしないことにした。
「ねぇお兄さん聞いとると?」
少し思案に耽り過ぎていたらしく、少女はオルトゥスの顔を不満そうに覗き込んだ。
「ああ、すまん。どうした?」
オルトゥスは、少し慌ててそれに返す。
「お兄さんの名前は? ウチはウィステリア。皆からはウィスて言われてる」
「名前か。俺はセレ……いや、オルトゥスだ」
「ふぅん。何しとる人なん?」
「騎士をやっている」
……いや、騎士をやっていたと言った方が正しいか? と訂正しようとしたところで。
「お兄さん騎士様なん? すごい! それ本当なん!?」
少女は、目を爛々と輝かせて前のめった。
その瞳には、並々ならぬ熱が籠っている。
「……騎士がそんなに珍しいか?」
「珍しいも何もこーんな田舎には国の役人も来たがらんよ。ねぇねぇそれよりさぁ、お兄さんってやっぱ強いん? いや強いんやろなぁなんたって騎士様やし! これ食べ終わったらさ、ちょっと剣の稽古つけてくれん? ウチの剣がどんなもんか見て欲しい」
「剣を握るのか。年頃の少女にしては珍しいな」
……それはオルトゥスに言えたことではないのだが。
少女はふふんと鼻を得意げに鳴らし、膨らみかけた胸を張って見せた。
「なんたってウチの夢は騎士になることやもん。やけん、剣の稽古は怠ったことない」
「ほう、それは殊勝なことだ。いいだろうウィス、少しでも君に恩返しができるなら稽古のひとつやふたつ、お安い御用だ」
「本当? ありがとう! 凄い嬉しい! 村じゃウチに剣教えてくれる人なんかおらんもん」
「……剣を扱える者がいないのか?」
「いや、そうじゃなくてさぁ……」
そこまで言ったウィステリアは少し罰が悪そうだ。
そして言い淀む間に、嵐はやってきた。
「あーっ! 野蛮女が余所モンに剣教えてもらおうとしとるー!」
窓の外に、生意気そうな笑みを浮かべた少年が張り付いていた。
一見した年頃はウィステリアと同じだろうか。
彼はげらげら笑って、
「やめときやめとき! 女が剣持ったって何の足しにもならんわ!」
「ロードン! あんたねぇ! ウチが何やったって勝手やろうが! 水差さんといて!」
「ろくすっぽ剣なんて握らん俺より弱い奴がよく言うわ! そのうちクロ様に食われるのがオチや!」
「ロードン~~~~~ッ!!!!」
ウィステリアが顔面を真っ赤にしたところで、ロードン少年は脱兎の如く逃げ出した。
年頃の少年少女らしいやりとりを見せられたオルトゥスは気が和らいだが、ウィステリア本人からすれば怒髪天だったようだ。彼女はしきりに地団太を踏んで悔しがっている。
「仲が良いんだな」
「そう見えるとしたら節穴やね」
ウィステリアの視線は刺々しい。
彼女は特大の溜め息を一つ吐くと、がっくりと項垂れた。
「ロードンだけじゃない。ウチの村の人間は皆ああ言うんよ。女が剣握るなんて野蛮やー言って。ねぇお兄さん、女が騎士になるってそんな変なんかなぁ?」
そう言って果実を頬張るウィステリアはどこか不満そうで、そしてその姿はオルトゥスにはどうしてもセレティナだった自分が重なって見えた。
微笑ましくもあり、そして彼女を応援したい気持ちがむくむくと湧いてくる。
「女性の騎士は確かに珍しい。これは体の作りからして仕方のない事なんだ。騎士には何より魔物の脅威を跳ね除ける力が必要とされる。女性に厳しい仕事なのは確かだ」
「……」
見るからに、ウィステリアの表情が翳り始めた。
オルトゥスは微笑み、彼女の頭をぐしぐしと撫でた。
「だが、女性が騎士を目指すのは決して変なことじゃないさ。武勲を上げ、陛下に認めてもらえるだけの力を磨けば性差なんて些細な問題さ。いいかいウィス、騎士に一番必要なのは男性であることでも力を持っていることでもない。大切なのは信念と誇りだ」
「信念と、誇り」
オルトゥスは頷いた。
「それさえ大事に持っていれば、きっと努力が君をまだ見ぬ景色が見える場所へと連れて行ってくれる。だから、忘れるなウィス。君が騎士を目指す限り、そこに通じる道は拓かれている」
それはオルトゥス……いや、セレティナ自身が自分に言い聞かせてきた言葉でもあった。
ウィステリアは表情をパッと華やがせると、何度も何度も頷いた。
「うん、うん! ウチ頑張る! やっぱ本場の騎士様の言葉は村の有象無象共と違ってタメになるね!」
「有象無象ってなぁ……」
「早くウチが騎士になって、クロ様をブッ飛ばすっちゃけん!」
「……そういえばさっきもあの少年が言ってたが、クロ様ってなんだ?」
オルトゥスはそう言って、ひとつ果実を摘まんだ。