エルバの浮舟亭
【書籍化決定】
皆様の温かいご声援のお陰により本作の書籍化が決定致しました!発売日は11月9日!
活動報告に詳しい書籍の情報やカバーイラストがございますので宜しければご確認ください。
日は既に地平線の向こう側へと落ちている。
空を見上げれば漆黒に薄く紫のベールが流れ、そこに鎮座する星々が燦然と輝きを放っていた。
流星がひとつ、またひとつと尾を残しながら流れていく。
セレティナは春の肌寒さに身を縮めながらキャスケット帽を深く被り直した。
夜はなだらかな静寂を湛えていた。
まるで平和そのもの……何でもない日常の延長がそこにあるようで、外の地獄を知っているセレティナは少し奇妙な感覚に囚われていた。
昼間に見たウルブドールと言えば頽廃の一途を辿り、秩序も倫理も崩壊していた。
しかし作戦本部と化した貴賓館を中心とする都市の主たる機関や要人を抱えたその一区画のエリアだけは、穏やかな静寂を保っている。
これは都市長エルバロがそのエリアだけを完全に封鎖し、要人達の安全を確保しているからだ。
「……『エルバの浮船亭』……」
セレティナは記憶を辿る様に、その高級宿の名を口の中で転がした。
イミティア達が拠点としている宿もこの封鎖エリアにあった筈だ。
宿の名はあらかじめあの旅商団の才女、レミリアから聞いておいたのだ。
セレティナはくたくたの体を半ば引きずる様にして石畳の道を歩いていく。
こんな時にでも律儀に点々と背を伸ばしている街灯が機能しているのは有り難い。
程無くして、目的の宿が見えてきた。
『エルバの浮船亭』。
文字通りどこか船らしいデザインを凝らされた面長の宿は、長大ながらも品よくそこに存在感を示していた。正面にひとつだけ拵えられた扉の側には、礼服を着た精悍な顔つきの男が二人控えている。
どうやら招かれざる客は通してもらえないらしい。
(こんな非常時に生真面目なことだ)
セレティナは小さく溜め息を吐いて、しかし歩みを止めない。
レミリアは何かあれば自分達を頼れと言っていたのだ。
まさか門前払いということもあるまい。
セレティナは男達の前に出ると、恭しくキャスケット帽を取った。
「夜分遅くに申し訳ありません。こちらにイミティア・ベルベット様がご滞在されていると聞いたのですが」
「……滞在中のお客様に関する質問は答えられません。用があるなら招待状の提示をお願いします」
「招待状……」
セレティナは言い淀んだ。
そんなものは受け取ってはいない。しかしこの堅物そうな二人にそんな事を言ってしまえば弁明の余地も無く追いやられそうだ。
(どうしたものか……)
セレティナが頬を掻いていると、何やら男達二人は耳打ちを交わし始めた。ひそひそと、お互いの意思を確かに交換すると、
「失礼ですが、お名前をお伺いさせても?」
「は……セレ……ティークと申します」
「ティーク様、ですか」
男達二人は頷き合うと、セレティナに譲る様に扉へと続く道を開ける。
「レミリア様より聞き及んでおります。どうぞ中へ」
『エルバの浮舟亭』。
ウルブドールでも指折りの高級宿の一階はいかな高貴な人間だろうと感嘆の声を漏らさずにはいられないほどに雅なラウンジが広々と広がっている。
襟を正さずにはいられないその空間は、しかし宿泊者の疲れた心を波立たせない程にはシックな色合いや風味を基調とし、エレガントながらに落ち着いた配慮が見えてセレティナにとっても大変好ましい瀟洒な趣味だった。
例の貴賓館のゴテゴテとした煌びやかさを見たあとならば尚更だ。
「しかしこれは……」
セレティナはずるりと脱げ落ちそうなキャスケット帽を慌てて抑えた。
雅なラウンジは、凡そ似つかわしくない喧騒に満ちていた。
丸テーブルとそれを囲う様にいくつも椅子が設けられ、卓上の上には酒、酒、酒だ。
それこそ安酒から高級なものまで空き瓶が放られ、盛りに盛られていたであろう大皿の料理も全て平らげられている。
そこで品の無い晩餐会を催しているのは大勢の粗野な男女だ。
それこそ亜人から子供と思われる小さな人間まで、種々様々な人間が酒盛りをしている。
ベルベット旅商団。
こんな雅な場所より余程外で焚火を囲っていた方が似つかわしい荒くれ達は、眠ることも忘れてその日の疲れを酒で洗い流していた。
セレティナがそうして苦笑を浮かべていると、
「あ、あの~、もしかして、ティークさんですか……?」
いつの間にか女性の三人組がおずおずと近づいていた。
彼女らはいずれも酒が深いらしく、顔にはほってりと赤が差している。
セレティナは慌てて居住まいを正すと、帽子を慌てて脱いだ。
「すみません申し遅れました。如何にも私がティークと申します。夜分遅くに……お食事中失礼しますが、こちらはベルベット旅商団の――」
セレティナがそこまで言って、女性三人組は次の言葉を待たずしてきゃあ! と歓声を上げた。
やっぱり! と言わんばかりに彼女らは顔を合わせて喜色を惜しげもなく表している。
「えっと……あの、何か……?」
事はセレティナが何か発言する前に展開する。
女性達の一際大きな歓声を聞きつけた酔っ払い達が何だなんだと寄ってくるのだ。
「どうしたどうした……うおっ、すげぇ美人!」
「お馬鹿! この方はティークさんよ! 男性!」
「ティークって、団長とウッドバックを助けてくれたっていうあの冒険者?」
「確かに物凄い美形ですね……」
「同じ人間とは思えないな。『天使』と呼ばれていたのも頷ける」
「しかし若いのね」
「うむ、若い頃のワシそっくりじゃわい」
「耄碌もそこまでいけば立派な事だなジジイ」
セレティナを中心に人だかりが出来あがるのは一瞬だった。
元より旅商団の中でティークという冒険者の事は最もホットな話題だったらしい。
女性達は皆一様にセレティナに対して熱い視線を送り、逆に男性陣は品定めするような視線を送っている。中には女性達の注目を一身に浴びるセレティナに対して面白くない、といった意味合いのものも少なくはないが。
背丈の低いセレティナはあれよあれよという間に人の山の中に埋もれ、どうしたものかとたじろぎ始めた時――。
「貴方達、何を馬鹿騒ぎしているの」
聞き覚えのある凛とした声は、喧騒の中でもよく通った。
振り向けば、セレティナも見知った才女――ベルベット旅商団の会計取締役、レミリアが歩み寄ってくるところだった。
彼女はセレティナの姿を認めると少し意外そうな顔をして、
「ティーク様」
その名を口から零した。
ひとつだけ咳払いをすると、人の山は両断された様に彼女に道を明け渡した。
【更新に関するご連絡】
誠に勝手ながら少しの間更新をお休みさせていただきます。
次回更新は11月1日となりますので、何卒よろしくお願いします。
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