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リキテル4/4

 


「お、おい。嘘だよな?」



 リキテルの問いに、しかし男は自身の腕を摩るだけだ。


 首の凝りを解し、ぐるりと腕を回して男はこう言った。



「じゃあな」



 と。



 背を向ける男の裾をリキテルは思考よりも早く掴んだ。



「ま、待てよ! 言ったじゃねぇか! こういう時こそ私怨だ何だ言ってる場合じゃない、助け合えって! 何だって逃げようとしてるんだ! ティークはまだ助かっちゃいねぇぞ!」


「うるせぇ!!!」



 男の丸太の様な腕が、リキテルを無理矢理振り払った。



「馬鹿が! 死ぬか生きるかの瀬戸際にお前らみたいな薄汚ねぇ餓鬼を助けてやる時間なんざねぇんだよ!」


「お、おい。頼む、頼むよ! 何でもするから、だからティークだけでも……」


「煩いって言ってるだろ糞餓鬼が!」



 涙交じりのリキテルの懇願に答えたのは男の岩の様な拳だった。

 子供だからとて容赦は無い、本気の一発だ。


 リキテルはそれをまともに右頬に受け、ものの数メートルは吹き飛んだ。

 頬の肉が切れ、血と共に砕けた歯が口から飛び出していく。


 遠くでティークの悲鳴が飛び、リキテルは煤だらけの地面を這いつくばった。



「恨むなよお前ら! お前らの脆弱さを恨め! 俺はとっとと行かせてもらう」



 男はそう言って、今度こそ背を向けて駆けだしていった。



「……ゲホッ! ガホッ……!」


「に、兄ちゃん……!」


「だ、大丈夫だティーク……俺が……俺が助けてやっから……」



 リキテルは幼い体を叱咤し、漸く身を起こすと口に溜まった血の塊を吐いた。

 じくじくと痛む口内は、鉄と胃酸の味で侵されている。


 ……惨めだ。


 リキテルは自然と涙が零れた。

 恐怖、不安、そして裏切られた事への無力感……。


 人の何倍も過酷な環境で身を窶していたリキテルといえど、未だ十歳になったばかりの体と精神はどうしようもなく揺さぶられた。彼は年相応の子供の様に嗚咽を漏らしながら涙を抑えられないでいて、しかししっかりとその手に角材を握って弟の足を潰す梁の下へと差し込んだ。


 しかし、梁はうんともすんとも動きはしない。



「兄ちゃん……」


「そ、んな顔するなよ……! 俺らはいつだって一緒だ! 俺は、絶対に諦めないからな!!」



 涙と鼻水を啜りながら、リキテルはそれでも諦めない。




 ……だが、もう時間を食い過ぎた。




「兄ちゃん後ろ……!」




 振り返れば、魔物共がゆっくりとこちらへ近づいてくるところだった。

 腹を瓢箪の様に膨らました、餓鬼型の魔物だ。

 奴らは新しい御馳走を見つけたと言わんばかりに、乱杭歯の隙間から涎と嬌声を漏らしていた。



 リキテルの喉奥から熱いものが込みあがる。

 キリキリと酸っぱい胃酸と吐瀉物を飲みこんで、リキテルは懐からナイフを取り出した。



「来るな! お前ら! 来たら殺すぞ!」



 口の中の血を飛ばしながら気炎を吐いたが、しかしその言葉が魔物共に通じるはずもない。


 奴らはひたひたと歩み寄るだけだ。



「……兄ちゃん、怖い、怖いよ……」


「安心しろティーク。俺は、強いんだ」



 ぐらりぐらりと波打つ視界に惑わされながらリキテルはナイフを構えた。

 大の大人に殴られたのだ……脳に受けたダメージは決して少なくない。


 それに、一体一体ならまだしもこの数の魔物を一度に相手にしたことはない。


 膝は嗤い始め、涙は止まらず、股には大きな染みが出来ていた。



 しかし、リキテルはそのナイフを手放さない。

 後退を少したりとも考えはしない。


 その後ろに、弟を背負っているのだから。




「あああああああああああああああ!!!!!」




 半ば狂乱しながら、リキテルは奴らの前に躍り出る。

 未熟さの残るナイフの軌道は、しかし最前にいた魔物の喉笛を鋭利に掻き切った。


 煤と炎の臭いの中に、血の臭いが撒き散らされる。


 リキテルは身を屈めると更に一歩踏み込んで魔物の腹にナイフを突き立てた。



(死ね! 死んじまえ!)



 悲しみも、苦しみも、そして恐怖すら憎しみに変えてリキテルは肉を裂く感触を味わった。

 涙と血の味がする唇を舐めて、ナイフを引き抜こうとして――。



「……っ!?」



 抜けない。


 錆びついたナイフは、ざらついた漆黒の肉に食い込んでしまった。


 魔物達は、嗤う。

 そして、枯れ木の様な腕が何本とリキテルに伸びた。



「やめろ! お前ら! 近寄るな!」



 爪は血と脂の塊にぎっとりと汚れ、口臭は腐敗した魚に糞尿を詰めた様に劣悪だった。

 されど、その嗤い声は身も竦む程に純粋。

 小さな子供の、無邪気な笑い声のそれと同質だ。


 黄ばんだ爪がリキテルの柔らかい腕の肉に食い込み、押し倒すと、何体もの醜い餓鬼がその上に折り重なった。


 乱杭歯がいくつも覗き込んで、そして。




「ああああああああああ!!!!!!」




 リキテルの絶叫が、飛ぶ。


 奴らの鋭い歯はいとも容易くリキテルの肉を食い破り、引き千切った。

 産まれて、経験したことのない強烈な痛みが幼い体と精神に駆け巡る。






 ――……死。






 リキテルが直感したのは、それだった。


 それも、ただの死ではない。

 考え得る限り最悪の死だ。


 悍ましい餓鬼共に食い尽くされて、中途半端に人とも肉の塊ともとれる遺体を残しながらの死。

 死ぬまで奴らの下卑た顔に囲まれて、耐え難い程の苦痛と屈辱に塗れての死。




(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!)




 それからリキテルは叫んだ。


 誰か助けて、と。

 もうやめてくれ、と。


 全身の痛みにのたうちながら、リキテルは絶叫し続ける。


 助けは来ない。来はしない。

 べりべりと剥がれていく血肉の感覚に、リキテルは喉が焼ける程の絶叫を繰り返した。




 だが、好機というものはあるものだ。


 血みどろになったリキテルの肌はぬるりと滑り、更に押さえつけられていた彼の衣服が上手く破けたのだ。


 その偶然の連続を見逃さなかったのはリキテルの持つ反射神経か、それとも限界まで研ぎ澄まされた生存本能の為か。


 リキテルは滑り、転がる様にして餓鬼共の山から脱出した。

 肌寒い空気に触れ、奴らの熱量を思い知る。


 リキテルは、悲鳴を上げながら走った。

 男に殴られた顎は、既に砕けていた。

 全身からは夥しい程の量の血が吐き出され、視界は鮮血に染まっている。




 今、リキテルの全身を脅かしているのはただ単純な恐怖だった。

 死を目前にした恐怖は縛鎖の様に幼い体を縛りつける。




 生きたい、死にたくない。

 ただただその思いで――。





 ――ティークの横を、通り過ぎた。





 遠くから、自分を呼ぶ声。

 愛すべき弟の声だった。


 リキテルは、泣きじゃくった。

 泣いて、嗚咽を漏らして、耳を塞いだ。



 耳を塞いでも弟が自分を呼ぶ声は聞こえてきた。



 兄ちゃん、兄ちゃん、と。

 恐怖と絶望に満ちみちた弟の声が。



 その声は、やがて絶叫へと変わる。



 痛い、やめて、と。

 それから声にならない絶叫に変わっていくのだ。



 リキテルは、より一層に耳を塞いだ。

 しかし、聞こえるのだ。聞こえてしまうのだ。


 弟の絶叫と、それから自分を呼ぶ声が。



 リキテルは謝りもしなければ、懺悔もしない。

 ただただ恐怖に脅かされ、逃げる事しか頭になかったのだから。




 ◇




 次に気が付いた時は、朝だった。


 何も無い街道の最中で、己の作った血の溜池の中に沈んでいた。


 気を失っていたわけでも、寝ていたわけでもない。




 ただ星が落ち、朝日が昇るのを半死半生で眺めていただけだ。



 体は鉛の様に重く、しかし今となっては自分が生きることに執着はなかった。



 涙は枯れた。

 虚ろな視線は、ただただ浮雲の様に宙を漂う。




 ――何故、逃げた。




 自分に問うて、その自問は鋭利な剃刀の様に彼自身の魂を切り裂いた。


 何故、何故、何故。

 何故、自分は生きている、と。



 何があれば、こうならなかった。


 何があれば、こんな人生にならなかった。


 何があれば、弟を護れた。




 手を空に翳す。

 ちっぽけな掌は、乾いた血と汗に塗れて、群青を穢した。




「……」




 頼りない手だと漠然に思い、彼は弟の言葉を思い出す。




『僕が弱いからいけないんだ』




 そうだ。

 そうだよな。



 リキテルは、妙に納得してしまった。



 弟はいつも言っていたではないか。

 弱いから駄目だ、弱いから苛められるんだ、それは仕方のないことなんだと。


 リキテルはその度にこう言った。

 違う、お前が弱いのがいけないんじゃない。お前を苛める奴らが悪いんだ、と。










 違う。



 強ければ、なんだって出来たはずだ。


 あの男にいいなりの生活をすることも、弟を見捨てて逃げることも、そんなことにはならなかったはずだ。



 そうだ。


 弱いからいけないのだ。

 弱い事は、罪だったのだ。



 弱い奴から奪われる。

 弱い奴は逃げる事しかできないのだから。



 強ければ、強ければ、強ければ。





「あハ、あは、あははははははははっはははははっははははははははっははは!!!!!!!!!」





 リキテル・ウィルゲイム十歳。


 この時彼は一生拭うことのできぬ咎を背負うこととなり、そして力への強烈な渇望から心を壊してしまった。




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