満身創痍
眼の内で不規則に乱れる琥珀色の瞳は、リキテルの消耗を如実に表していた。
胸には抉れた傷が大きく目立ち、全身は返り血ではない彼自身が流した血でしとどに濡れている。
ずるりずるりと頭の無い黒山羊の胴を脇に引き摺るリキテルの姿は、魂を求めて彷徨う悪霊の様ではないか。
リキテルは宙に浮かぶ『死を纏いて黒より出づる者』の姿を認めると、乱雑に引き摺り回していた黒山羊の死体を興味の一切が失せたと言わんばかりに放り捨てた。
乱れる呼吸。
ゆっくりと腰のホルダーから引き抜いたククリナイフは刃毀れが激しく、また、奴の炎を受けた影響かその身が僅かに溶けている。
「フーー……ッ……! フーー……ッ……!」
しかし仄立つ闘志は、雷鳴だ。
生存本能を掻き立てられた手負いの獣がそうであるように、リキテルはこの上ない闘志と殺意をその身に宿していた。
「リキ、テル……?」
彼の名を零したのは、セレティナだ。
セレティナは見たことのないリキテルの姿に、戸惑いを隠し切れずにいた。
彼が好戦的な性質を持っているのは知っていた。
元々セレティナはリキテルと出会った時に僅かな殺気を孕んだ視線を投げられていたし、レヴァレンスやウルブドールでの彼の戦いぶりも見ていたのだから。
危うい感性を持った青年だと、確かにセレティナは認めていた。
飄々とした仮面の内側に、何か歪んだ感性を秘めている事も。
だが、今、リキテルが解き放っている殺気には、セレティナにとって度し難いほどの密度が蓄えられている。
市民を蹂躙された義憤から来る様な安い殺意ではない。
何か、根底……底の底にある触れてはならない場所に触れた……そんな粘質な闇が、彼の内側から殺気や闘志、または怒りとなって染み出している様だった。
セレティナの言葉は、届いてはいなかった。
無風。遠く離れて人々の悲鳴が聞こえてくる程度の、緩慢とした静寂が保たれたこの地にて、セレティナの声が聞こえていないわけではなかった。
だが、リキテルはそれが自分を呼び止める声だと理解できない。
判然としない、朦朧とした頭と視界の中で唯一つ明瞭に理解できるのは、眼に映る二体目の『死を纏いて黒より出づる者』の姿のみだった。
「……驚愕。あの赤毛のお馬鹿さん、『上級』を一体片付けてるなんて」
「同意。あそこまで強いとは思ってなかった。でもあの子……」
「……うん、まともな状態じゃない」
お互いの意思の疎通を図るユフォとヨウファは、どうするか決めあぐねていた。
リキテルは、明らかに消耗している。
このまま『死を纏いて黒より出づる者』と戦わせるのは、余りに危険だ。
だが、リキテルを捨て駒として扱うならば、二人とセレティナは安全に脱出できるだろう。
ユフォとヨウファには、課せられた使命がある。
それは、誰に課せられたでもなく、自分達『篠突く影』が課した使命だ。
彼らの主たるヨウナシはセレティナをこう評した。
『とても唆られる存在だ』と。
そしてヨウナシはレヴァレンス脱出の折、セレティナを護れと命じたのだ。
これが『篠突く影』にとって何を意味するか……そう、セレティナの安全を完全に確保できるまでその側を離れるな、ということだ。
実際にはそれはヨウナシの思うところではないのかもしれない。
何故ならヨウナシはこの世を統べる三界の内の空の王にして、人の知恵の及ぶ所ではない傾奇者だ。
セレティナを守ったところで、ただ気苦労な事だったなと笑われるだけかもしれない。
だが、ヨウナシが気に入った存在を見殺しにしては彼女の逆鱗に触れる可能性だってある。
ユフォとヨウファは決めあぐねていた。
リキテルを見殺しにするか、否かを。
「……」
リキテルは、唇をべろりと舐めずって、頬の内に溜まった血をひと塊り吐き捨てた。
幽鬼のようにゆらりゆらりと揺れ、しかしどっしりとした足取りで黒山羊の元まで歩み寄る。
「……」
宙を浮いていた『死を纏いて黒より出づる者』は、ゆっくりとその地に降り立った。
黒衣に身を包んだ黒山羊のその佇まいは、ともすれば品の良い紳士の様に見え、しかしその実は人間を甚振り殺す事にしか興味の無い悪魔だ。
黒山羊は同胞を殺された悲しみからか、自分と同種の首を落とされた怒りからか、それともただ単純にリキテルを力を振るうべき好敵手と認めたからか……そのいずれかに該当するのかは人の身である以上推し量れない。
だが、リキテルを次の標的と認めたのは紛れも無い事実。
二人は、お互いに歩み寄っていく。
一方は一度翼を捥がれたとはいえ、全快の『上級』に属する魔物『死を纏いて黒より出づる者』。
一方は余りにも消耗仕切った血濡れの騎士、リキテル・ウィルゲイム。
ククリナイフは血錆に塗れ、滴る血は彼の視界を紅色に侵した。
だが、燃え立つ殺気は、彼自身の身を内側から焦がすほどのものだった。
(リキテルは、殺される)
両者が睨み合うように、直立で対面した時に、セレティナは素直にそう思った。
リキテルが一体『死を纏いて黒より出づる者』を殺したのは事実だが、誰がどう見ても二体目は無理だ。
だからその背中に手を伸ばし、
「リキテーー」
彼の背中に呼びかけようとした、その時。
「行くよ」
視界を濁したのは、ユフォの藍緑色の美しい髪の毛だった。
「なっーー」
彼は傍若無人に肩に摑みかかると、セレティナの小柄な体をひょいと持ちあげた。
セレティナが何かを言う暇もくれず、ユフォはひらりと民家の屋根へと跳躍した。それを追う様に、ヨウファも難なく背中に付いてくる。
「ヨウファ、背中は任せた」
「了解。ユフォ、背中は任せて」
ひらりひらりと、まるで綿毛の様に跳躍を繰り返してその場を走り去る兄弟に、思わずセレティナは叫んだ。
「ちょっと待て! 何をしている!? リキテルを残したままだぞ!」
「貴女の言う通り、置いてきた」
ユフォの解は容赦がなく、また、いつもの平坦な口調なだけあってただ冷酷な判断を下したのか、狙いがあってリキテルを置いてきたのかセレティナには判断が鈍る。
しかしユフォはこう続ける。
「一人の犠牲で逃げ果せられるのなら、大収穫」
「お前、何を言って……!?」
「冷静になって。これが最善なのは、貴女も分かるはずでしょう」
「お、おい……離せ……!」
ユフォの腕の中から逃れようと身を捥がくも、体力の底を突いたセレティナのそれなどただ戯れている程度の抵抗にしかなり得ない。
「くっ……リキテル……」
「諦めなさい。僕達には、貴女を護らなければならない責任がある」
黒々としたユフォの瞳は平坦に行く末を見、戻ると言う選択肢も、リキテルを助けたいという情の揺らぎも一切無い。
セレティナはただ遠ざかるリキテルの背中を見る事しかできず、
「リキテルーーーーーー!!!!」
その背中は、黒山羊の操る爆炎に紛れて見えなくなった。