味方
紅蓮が、世界を満たした。
強烈な熱波は石畳を溶かし、通りに突き立った街灯をその余波だけでとろりと捻じ曲げている。
焦げ饐えた黒煙の上に君臨するのは、黒衣の悪魔。
『死を纏いて黒より出づる者』の山羊の様な顔に埋め込まれた六つの異形の瞳が、地獄の様相をぼんやりと眺めている。
「ハァ……ハァッ……!」
地獄の中心。
セレティナは膝を付き、石畳に突き立てた宝剣『エリュティニアス』に縋ることでなんとか倒れ伏す事を免れていた。
珠の様な汗が乙女の白肌を伝い、暴れ狂う肺を抑えられないでいるセレティナの呼吸は荒い。
その体の反応は、己の体が悲鳴を上げていることもそうだが、彼女自身が死を覚悟した極度の緊張から解放された事も起因しているだろう。
地獄の世界は彼女の半径何メートルかを避けて展開されている。
セレティナがいるそこの石畳はどろりと溶ける事も無く、時と空間を切り抜かれた様に爆炎の影響を避けていた。
跪くセレティナの傍らに居るのは、黒装束に身を包んだ二人の『シノビ』だ。
彼らは黒のフェイスベールの下で僅かな緊張を湛えながら、掌を空に翳している。
『篠突く影』のユフォとヨウファは薄く球体に描いた防壁魔法を漸く解くと、浅く息を吐いて手を下した。
「……ありがとう」
セレティナは顎に伝った汗を拭いながら、ふらふらと立ち上がった。
その感謝の言葉は、心の底から出たものだ。
彼らが来なければ、セレティナは今頃細胞のひとつすら残さす焼失していたことだろう。
ユフォとヨウファは腰に提げたナイフを構えると、視線を黒山羊から外すことなく肩を竦めた。
「愚策。いくら貴女でも『上級』相手に一対一は無理」
「提案。ここは一旦下がるべき。少し補給の時間が必要」
彼らの意思は、撤退だった。
セレティナはそれに賛同できずとも、否定もしない。
頭では撤退が最善と分かっていても……
「……しかしここで止めなければ、ウルブドールが地獄に変わる」
「……笑止。勝ちを狙うなら、これ以上僕達が消耗するのは愚の骨頂」
「僕らもそう長くは保たない」
そう言い放つユフォの呼吸も、浅く早い。
よくよく見れば彼らの装束も至るところが擦り切れ、少なくない傷を晒していた。
それだけで、きっと彼らもどこかで魔物達相手に大立ち回りをしてきたのだろう事が察せる。
肉体的な消耗もそうだが、魔法的な消耗は筆舌に尽し難い程の負担が体を苛むものだ。
防衛線でのイミティア程のものではないが、それに近しい症状が彼らの体にも表れていた。
彼らの僅かな体の震えを察知したセレティナは、自分らの置かれた状況を理解せざるを得ない。
確かに、ここでいくら頑張ったところで犬死だ。
だが……。
「……もう少しだけなら粘る価値はある」
「……何故」
「オーバンス将軍が来てくださる可能性がある。あの方が加われば形勢もこちらに傾くだろう」
「……否定。彼ならここにはこない」
「何故だ」
「『上級』の魔物が現れたのはこの地区だけじゃないってこと」
「……なるほどな」
セレティナは苦虫を噛み潰した。
ウルブドールは、既に何体もの『上級』に侵されている。
情報収集能力に長けた『篠突く影』の二人が俯瞰してセレティナの元に駆け付けたというのなら、残りの『上級』に対してはオーバンス将軍が相対しているということだろう。
「……ちなみにあの赤毛のお馬鹿さんも『上級』の相手をしているところ」
「リキテルが? 馬鹿な……ウルブドールには何体『上級』が侵入しているんだ」
「幸いな事に三体。……だけど、もっといるかもしれない」
ユフォとヨウファの語る口に余裕など無い。
あるはずもない。
『上級』を三体も相手するなど、魔物の生息域たる『汚染域』であってもそうそう有り得ることではないのだから。
それだけ『上級』とは稀有な存在であり、力を持つということだ。
茜色の空。
死の象徴たる漆黒……『死を纏いて黒より出づる者』は、そんな人間達の不安や絶望を知ってか知らずか、悠々と揺蕩っている。
黒い山羊の六つの瞳は、まるで蟻の巣を観察する童が如くじろじろとセレティナを捉えて離さない。
「何故奴は動かない」
セレティナは呼吸の乱れを僅かでも整えながら、ゆっくりと立ち上がった。
ともすれば、ふらりふらりとどちらかに倒れてしまいそうな体を何とか支えて、セレティナは青褪めた唇を舐める。
「……不明。こちらを嘲けている?」
黒山羊の様子をつぶさに観察し続けているユフォも、余りの動きの無さに喉を鳴らした。
『死を纏いて黒より出づる者』は、動かない。
それは活動を停止している様にも、考え込んでいる様にも、セレティナらを観察している様にも見える。破壊衝動や快楽衝動に突き動かされて生きている魔物には、珍しい光景だ。
だが、『死を纏いて黒より出づる者』のその行動が前述のいずれかに該当するというのなら、考え込んでいる、が一番正解に近しいだろう。
それは自身の攻撃を防がれたことに関するものではない。
黒山羊は、魔物間の波動を鋭利に感じることが出来る。
それは『死を纏いて黒より出づる者』という存在が有する眷属召喚という稀有な特性に起因する。
本来言語や精神感応を扱えぬ魔物が如何にして他の魔物と意思疎通を図っているかと言えば、個々の有する波動の色を見極めて対応している、というのが有力な説であり、それは的を射ている。
波動は人や精霊に見分けが付かず、だからこそ魔物の意思が理解できない。
とは言っても、魔物同士の意思の疎通などそれこそ雑把すぎて昆虫程度の意思しか持ち得ぬのだが。
波動は、強ければ強い個体ほどその影響力は大きい。
『上級』ともすれば尚更だ。
三体もの『上級』の魔物の波動に感化された有象無象は興奮状態にあり、それはフェロモンの様に他の個体を引き寄せてならない。
『死を纏いて黒より出づる者』の頭の中を表すのであれば、困惑、というひと言が適切だろう。
このウルブドールには自分の他に後ふたつの『上級』の波動が満ちていたのに、その波動がひとつ、抜け落ちた様に感じられなくなったのだから。
「何だあれは」
セレティナが、呟いた。
空に、くるりくるりと何かが飛んでいる。
それは、頭。
よくよく目を凝らせばそれが何かは分かるだろう。
『死を纏いて黒より出づる者』と同じく、黒山羊の頭が飛んでいて、それはやがてセレティナの目前にべちゃりと潰れて落ちた。
じりじりと焼けた石畳の上に落ちたそれは、ジュワッと音を奏でると六つの眼球を眼窟から取りこぼした。
「次は、どいつだ」
全身が赤に染まったリキテルが、幽鬼の様に現れたのはそのすぐ後だった。