焼失
民家に、火柱が打ち立った。
紅蓮の業火に飲み込まれた木造の建造物は、シュワッと拍子抜けする様な軽い音を奏でて塵の一つ残さず消滅する。
そこから逃れる様に転がり、のたうつのはセレティナだ。
強烈な爆風と熱波に当てられた彼女は、体の至る箇所を石畳で擦り剥きながら長距離を吹き飛ばされ、やがて厩に激突した。
「くぅっ……!」
ダメージはどうやら光の翼が肩代わりしたらしい。衝撃の割には体に異常は無く、セレティナは干草に塗れながら『エリュティニアス』を拾い起こした。
肌にひりつく様な熱気と存在感が、黒山羊が差し迫っている事を教えてくれる。
「お行き」
馬達を繋いでいた綱を断ち切ると、尻を叩いて逃走を促した。
馬達は驚き慌てて、脱兎の如く厩を飛び出していく。
それを見送る暇はない。
爆炎と破壊を連れ立って、黒山羊は猛進してきた。
操られ、突風の様に突き出された三又槍は、殺意の塊に他ならない。
セレティナは踊る様にステップを踏んで半円を描くと、『エリュティニアス』で干草の塊を蹴散らかした。
黒山羊の六つもある眼は、目の荒い干草の屑と砂埃を巻き上げられて僅かに怯みを見せる。
それをセレティナが見逃すべくもない。
彼女の眼前に、銀色の星々が瞬いた。
……否、それはセレティナが操る剣の閃き。
目も眩むような剣技は、脳を刺すような甲高い音色を連れてやってくる。
『エリュティニアス』の細身は、いとも容易く『死を纏いて黒より出づる者』の四肢を食い破る。
瞬きの一つすら終わらぬ間に腕を飛ばし、胴を割き、首を刎ねた。
黒山羊の頭はくるくると宙を舞い、そして--。
「!?」
高笑いを上げると火を纏って焼失した。
残された肉の塊には亀裂が入り、そこから細く鋭く吐き出される炎と共に無数の狼が飛び出した。
『死を纏いて黒より出づる者』と対峙する前に倒したあの狼型の魔物だ。
「ダミーか!」
セレティナは思いがけず舌を打った。
少し離れたところで、黒山羊がせせら嗤いながら手の中で『種』を弄んでいるのを見たからだ。
『誇りと英知を穢す者』の特性が再生と変質であったように、『死を纏いて黒より出づる者』にも特性があり、爆炎を操る他に厄介とされているのが眷属の召喚とされている。
際限があるのか無いのか……それはセレティナに知る術は無いが、黒山羊は掌から湧き出る泉の様に『種』を産み出すと、空を抱く様にそれらをばら撒いた。
『種』は弾けると、ヘドロの様な闇を吐き出し、そこから黒山羊の眷属がぬるりと這い出てくる。
セレティナは狼共の首を次々と刎ねながら、今一度舌を打った。
(くそ……これは、少し不味いか……!)
『エリュティニアス』の冴えが、衰え始める。
それはとうとうと言うべきか、やはりと言うべきか。
連日通しての死闘に加えて、ほぼ休息は無し……加えて慣れぬ空中戦で精神を摩耗し、彼女の体が悲鳴を上げぬ筈が無かった。
そもそもここまで体調を崩す事なく動けていた事が奇跡だ。
快調を齎していた首元の紋章も、今は弱々しくか細い光が灯っているだけだった。
「--っつぁぁあ!!!!」
『エリュティニアス』を横薙ぎに振るう。
鋭利な一撃は一度に三頭もの狼を裂いた。
……が、それはセレティナの意識から外れた軌道を描いてしまい、急所を逃した。
「くぅっ!」
セレティナは大粒の汗を流しながら、一撃の浅さと力の衰えに喘いだ。
狼共はきゃいんと悲鳴をあげるが、その後傷など意にも介さずセレティナに喰らいかかる。
「はぁ……はぁっ……はっ……!」
セレティナの体が、『エリュティニアス』に振り回され始めた。
幼子でさえ持て、しかし必要な手応えだけ使用者に与える魔法付与が施された細身の剣に、だ。
傍から見れば、まるで鉄の塊を握っているのではないかと思うほどだ。
セレティナは遠心力を利用し、腰を捻り、肩、肘、それから手首へと一部の力も逃さずに流れる様にストロークする事で『エリュティニアス』の威力を保ち続ける。
ともすれば宝剣が手離れしてしまいそうなその状況は余りに危険。
しかし、ここまで追い詰めて『死を纏いて黒より出づる者』が何も仕掛けてこないのは違和感だ。
……だが、その違和感は直ぐに消し飛んだ。
「なっ……!?」
煌々と輝く太陽--否。
紅蓮の塊を掲げた黒山羊が、宙に浮いている。
蝙蝠の翼は再生したらしい。
粘質な笑みを浮かべた黒山羊は、まるで紙屑でも放る様にその手をセレティナへと振った。
セレティナの群青色の瞳が見開かれる。
狼は隙間なく彼女の進路を遮って、逃れる事などできはしない。
「しまっ--」
瞬間、セレティナの視界が白光に染まり上がる。
太陽と見紛う紅蓮の塊は、黒山羊の眷属達もろとも彼女を飲み尽くして辺りを地獄に変えた。
グラグラと煮える様な熱風は、今や遥か遠くにある迎賓館まで届いたという。