墜落
『死を纏いて黒より出づる者』が、吠える。
思わず耳を覆いたくなるような、不快な甲高い声だ。
黒山羊は三又槍を構えると、蝙蝠の翼を操った。
「……来いッ!」
セレティナの翼も、輝いた。
黒山羊に背を向け、その場を離れるセレティナの行動は『逃走』ではない。
眼下に広がる街並みに飛び火してはかなりの犠牲が出ると判断した彼女は、その場から驚異的な速度で離脱する。
セレティナの目論見通り、黒山羊は付いてきた。
馬が駆けるよりも速く、黄金と漆黒は茜色に直線を描いた。
一向に黒山羊が追い付けないのは、速度ではセレティナが勝っているからだろう。
空を滑る様に飛ぶ黒山羊は、黒々とした異形の手を前方のセレティナに翳した。
そうすると、ぐらぐらと煮えたぎる様な熱量を蓄えたその手から、黒々とした紅蓮の炎が放射上に三つも飛び出した。
前世『死を纏いて黒より出づる者』と対峙した記憶を持つセレティナは、天地万物を溶かしうるその炎の脅威を知っている。
セレティナは肝を冷やしながら光の翼を翻し、追い縋る地獄の焔をバレルロールしながら躱していく。
彼女のすぐ横を通り過ぎていった焔の熱量に、ごくりと喉を鳴らさずにはいられない。
セレティナはこの時初めて黄金の髪を短く切っていて良かったと思った。
(オルトゥスだった時に装備していた聖鎧の類は今は無い。一度でもあれを浴びれば終わりか)
セレティナの身を包んでいるのはレヴァレンスで拵えた男装用の衣服のみだ。
はっきり言って装備と言える代物は彼女が握る宝剣『エリュティニアス』だけ。
その『エリュティニアス』も、現王国騎士団団長のロギンスが振るう巨剣『ゲートバーナー』のような崩魔の効果は無い。
装備に頼れない以上、一度でも選択を誤れば死が待ち受けている。
『上級』の魔物と戦うということは、そういうことだ。
大いなる脅威の前では、針の先程の油断も許されない。
セレティナは、今一度気を引き締めた。
そうこうしている内にも『死を纏いて黒より出づる者』の追撃は止まる事は無い。紅蓮の焔の追撃は更に苛烈さを増し、セレティナどころかそのまま空全体を灼き焦がすのではないかと思うほど彼女を攻めたてた。
「……っくぅ……!」
セレティナは高く高く逃れ、とうとう雲海の中へとその身を突っ込んだ。
目標の行方が分からなくなった焔はやがて、的外れな軌道を描いてセレティナの横を通り過ぎていく。
どうやら目論見通り目くらましには成功したようだ。
しかしその直後、漆黒の閃光が強烈な熱波を伴って辺りの雲を吹き飛ばした。
「う……わっ……!」
一際大きな爆発が起こったらしい。
衝撃に喘ぐセレティナだが、しかし目前には既に黒山羊が差し迫っている。
視界が開けた黒山羊は涎を垂らしながら獰猛に笑むと、三又槍をセレティナの顔面に突き出した。
セレティナは仰け反り、『エリュティニアス』の腹で槍を滑らせると、流れに逆らわずに後方に吹き飛んだ。
慣れぬ飛翔魔法に、慣れぬ空中戦。
転がりながら空を墜ちていく内に、彼女の三半規管は異常の兆しが見え隠れし始めた。
脳と眼球をシェイクされながら、しかしセレティナは驚異的な姿勢制御で態勢を持ち直す。
墜ちるセレティナを、『死を纏いて黒より出づる者』は待ってはくれないからだ。
鉄砲雨の様に地獄の焔が降り注いだ。
「くそ……っ!」
セレティナは錐揉み回転しながら宝剣『エリュティニアス』を操った。
研ぎ澄まされた達人の剣は、『上級』の魔物が操る炎でさえ引き裂いた。
形を取らない炎という存在が、まるで定規で線を引いたように幾重にも分かたれて消滅する様は見ていて奇妙な感覚を得る事だろう。
嵐の様な猛攻とそれを捌き切る流水の様な巧守。
黒々とした紅蓮の焔は、銀色の煌めきに悉く往なされる。
だが、それも長くは続かない。
セレティナの右翼が、一筋の焔に貫かれた。
「く……!」
セレティナは均衡を失った翼の制御に喘いだ。
片翼の浮力を失った体は、ふらふらと更なる墜落を始める。
『死を纏いて黒より出づる者』が悦びに吠えた。
くるくると三又槍を回し、喜色満面で落下するセレティナに追い縋る。
それはトドメの一撃だったのだろう。
全霊を込めた大仰な槍の軌道は、しかしセレティナには単調すぎた。
「勝ちを得たつもりか愚か者め」
三又槍が貫いたのは、セレティナの左翼だった。
セレティナは未だ健在の左翼を槍の楯に使い捨てると、その勢いで『死を纏いて黒より出づる者』の後ろを取った。
間髪入れず、一閃――『エリュティニアス』が銀色に瞬いた。
『死を纏いて黒より出づる者』が、甲高く鳴いた。
背から大量の赤を噴く黒山羊の背に、翼はもう無い。
蝙蝠の様な両翼は、鮮血に塗れながら空を舞っていた。
気付けばもうウルブドールの街並みが目前に迫るところまで落下している。
浮力を失った黒山羊と天使は、もつれ込むように民家の屋根に墜落した。