先手
『星々を跨ぐ光輪』
ウルブドールの大門を超えてきた飛翔魔法の効果は、まだ持続している。
使用時間は半刻程度。それさえ経過しなければ、セレティナの思うままに、思うときに光の翼を操ることができる。
セレティナの背に彫り込まれたような魔法陣は淡く明滅し、彼女に飛翔の奇跡を授けた。
天使となった彼女は、光の尾を残しながら徐々に茜色の空へと浮上していく。
「ほおう。飛翔魔法か……それもあれほどに見事な……」
窓の外を眺めながら、零す様に台詞を吐いたのはオーバンス将軍だ。
顎に蓄えた髭を撫でながらセレティナの背を追う彼の視線は、やはり吟味めいた色が強い。
「なるほど、光の翼の『天使』か。少しお手並みを拝見しようじゃないか」
「将軍。貴方はいかないのですか」
冒険者組合長エティックは、ひどく青褪めていた。
「あれは『上級』に登録されている魔物……名を『死を纏いて黒より出づる者』。あの流浪の冒険者がいくら強いとて奴に敵うはずもありません。将軍、貴方が出なければこの街はもう……」
「まあ待て待てエティック、そう急ぐこともあるまい。今面白いところなんだ」
「は? 面白い……?」
「私はあのティークという少年の力を見計らったつもりだったが、しかし彼の底までは見る事は叶わなかった。いい機会じゃないか、ゆっくりと見させてもらおう。『天使』の実力とやらを、な」
「貴方は何を言っているのか分かっているのですか! 彼だけじゃない……奴が暴れ出したらこの街そのものが危ういのですよ! 何を悠長なことを言っているのですか! 早くティーク君に助力を……!」
「少し黙ってくれないか」
「な……」
「……言わなかったか? 今、面白いところなんだ」
肌を刺す様な剣気は、直ぐに訪れた。
オーバンス将軍は、微量の怒気を言葉の端に含ませただけだ。
だが、その威圧感。
その男の物言わぬ怒りに触れ、エティックは唾を飲み下した。
エティックは彼の事を野性味はあるが温厚で、物分かりの良い人間だと評価していた。
しかし、それは違う。
人の生き死には、彼にとっては些末な事だ。
何が利か、何が楽か、何が彼の興味をそそるか……皇帝の側に侍る事ができる三大将軍は、やはり一筋縄ではいかない。
空を楽しげに見上げるオーバンス将軍の横顔を、エティックは戦慄を覚えながらただ見ている他なかった。
◇
『死を纏いて黒より出づる者』と『天使』が、対峙する。
漆黒の焔を従える悪魔は、宝剣を握る天使をさぞ興味深げに覗き込んでいる。
山羊の頭に収まった四つの眼は、ぎょろぎょろと蠢いてセレティナを注視した。
セレティナは、ここにきて僅かに心が恐怖に蝕まれている感覚を得る。
じっとりとした汗が背に張り付き、唇を舐めると嫌に乾燥していた。
『エリュティニアス』の柄の感触はいつもと変わらないというのに、切っ先を揺らすと重みが増したようにさえ感じてしまう。
夕焼けに染まる春先の冷気は、目の前に浮遊する悪魔の焔で焦げ付いていた。
『上級』の魔物と対峙するのは、これで二度目。
(大丈夫だ。私は、前よりもきっと成長している。だから――)
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
心の中で、三回唱える。
これは、王城にいた時にエリアノール姫から教わったおまじないだ。
心の中で三回大丈夫と唱える……そうすれば不思議と心が楽になるんですのよ、と。
エリアノールの微笑みを思い浮かべ、セレティナには確かに勇気が漲った。
そして――。
「いくぞ」
凡そ囁く程度の宣言。
セレティナは光の翼を操ると、疾風を纏った。
視界は後方に吹っ飛び、驚異的な速度で『死を纏いて黒より出づる者』の目前へと迫る。その速度は、セレティナ自身でさえ内心驚く程だ。
セレティナは、『エリュティニアス』を横に薙いだ。
硬質で、甲高い音が遅れてやってくる。
悲鳴の様な剣鳴を従えながら『死を纏いて黒より出づる者』の首を狙い撃った一撃は、しかし阻まれた。
『死を纏いて黒より出づる者』の手には、いつの間にか漆黒の三又槍が握られている。黒山羊は鼻歌を歌いながら『エリュティニアス』の行く手を往なすと、けたけたと童の様な嗤い声を上げた。
しかし、その一撃が通らないことなどセレティナは百も万も承知の上だ。
彼女に握られた『エリュティニアス』は、いなされた力に逆らわない。
「……ッシッ!!!」
力で敵わぬなら、逆に利用するまで。
セレティナはつんのめった力を逃がさず、驚異的な空中制御で丸鋸の様に縦に回転した。
三又槍に絡まり、纏わりつくような彼女の挙動は黒山羊の理外だ。
宝剣の流れる様な円軌道は、銀色の残光を従えながら確かに『死を纏いて黒より出づる者』の肩口を捉えた。
シュパァッ……ッ!!!
歯切れの良い、肉を裂いた剣鳴が夕焼けの空に奏でられ、茜色のキャンバスにどす黒い赤が飛散する。
(手応えあった……!)
セレティナは光の翼を巧みに操って空を転がると、弾かれるように距離を取った。
『死を纏いて黒より出づる者』は、静止している。
肩口を叩いたり、摘まんだり、どうやら自分の身に何が起きているのか理解できていないようだ。
小首を傾げ、己の手にべったりと付着した血を眺めると、またも無邪気に嗤い声を上げた。
「……よく笑う山羊だ……」
心臓は彼女の心に反して無様に、不規則に乱れていた。
『上級』の魔物に、完全な先手を打つことはできた。
だが……。
「勝負は、ここから……か」
振り返った『死を纏いて黒より出づる者』に笑みはもうない。
憤怒に表情をガラリと変えた山羊の殺気を示す様に、紅蓮の焔が仄立っている。